雪花石膏
美大のキャンパスはクリスマスを控えて、妙に浮かれ騒いで華やいでいる。
過酷な受験戦争を生き抜いて、ここに集った未来の芸術家達は、クリスマスだからといって、田舎の実家に帰るような無粋者じゃない。
男ウソップ１９歳の冬。
今年東京で生まれて初めて、たった一人のクリスマスを迎える。
美大入学後、課題を落とすことなく１０ヶ月、いまだ彼女無し。
肩に食い込んだ画材が重い。
こいつらは俺の命よりも大事な道具だってのに、身体が変形するほど重力に負荷をかけてくれやがって、恨みでもあるとしか思えない。
美大生っつーのは毎日重たい荷物を担いで、下宿とキャンパスを行ったり来たりの日々だなんて、誰も教えてくれなかったぜ。
上京したらすぐさま８千人の美女達が俺を取り囲み、バラティエの色男もまッ青なバラ色の日々が俺を待ってる筈だったんだ。
なのに入学したての春にいきなり故郷のじいちゃんに死なれちまうと、おいそれと遊んでもいられねえんだって気になって、
そうかと思えばすぐさま課題課題課題の嵐。
初めの半年は自分の手のデッサンを吐き気がするほど大量に描かされた。
ほんの二日や三日の締め切りで、静物画を一枚仕上げてこいなんて言われる事もしょっちゅうだ。
実際課題の提出に思い悩み、プレッシャーになっちまって描けなくなり、一回生のうちから長期自主休校になっちまった奴もいる。
俺様は溢れんばかりの才能を持て余しているがために、画題に困るなんてことは無かったが、仕上げる期間が短いのは困ったもんだ。
でもここでちびっとでも弱音を吐くと、実家で煙草吹かしたムカつく兄貴が、根性無しだのふんばりが足りねえだの、
満面の笑顔でバカにしやがるから、何が何でも踏みとどまって、ガバっと故郷に錦を飾ってやるんでい。
カヤ！俺の活躍をしっかり聞いてろよ。
今日の授業は全部終った。また下宿に帰って課題の仕上げにかからにゃならねえ。
画材を肩に担いだまま、広いキャンパスを通り抜けて、仰々しく蔦の絡まったレンガ作りの校門を目指す。
やけに緑の多いこの学校は、見るからに美大らしく古めかしい雰囲気に包まれてる。
周りの風景は無機質なビルの林だってのに、ここだけ時代の下った異空間の穴の中にいるようだ。
そこそこのスペースを確保した校門前の広場。
この寒いのにイーゼルを広げて写生に精出す奴やら、ベンチを独占して二人きりの世界を作るのに忙しいカップルやら、
どいつもこいつもご苦労なこった。
どこかのサークルが１２月に入ったとたん、校門前広場の高い一本の木に電飾を施した。
そりゃもみの木じゃねーぞ。
まだ夕刻前で大して暗くもないのに、緑やら赤やらの光がチラチラと目を打つぜ。
その不毛な電気代を灯りも点けられない他国の人々の為に役立てるって頭はねーもんかな？
クリスマスツリーもどきの下で、女学生共のキャイキャイと華やいだ声が響く。
どうせ学内外で人気ナンバーワンの学生イラストレーターからサインでもねだっているんだろう。
よく見かける光景だ。
けどのその集団はいつもと少し違って見えた。
群がる女達の真ん中に黒いロングコートを着た背の高い男がいて、頭一つ分抜きん出てやがる。
「さすが美大に通うレディはセンスが良いですね。磨かれたファッションセンスもさることながら
どなたもみな、輝くような白いお肌。淡い白雪のようだな」
この年頃の女共はみんなバカだ。
適当に囁かれる賛辞は、みな自分一人に向けられたもんだと思い込む。
だけどその男に関しちゃ、お世辞も本音だったりするんだよな。
けどお世辞も本音も決して一人の女相手も囁かれるわけじゃねえ。
「本当に口の上手いお兄さんね。一体この学校の誰に御用がおありなのかしら？」
「いやあ、美しいレディを目前にして、本来の目的なんかきれいさっぱり忘れましたよ。
強いて言えば君達と楽しくお話する事かな？いかがです？あちらでお茶でも」
えー？やだ？どうする？行っちゃおか？
っていうくだらねー反応がそいつは楽しくて仕方ないらしい。
俺はすーっと空気を吸い込んで、木の下にいるそいつに向かって声を張り上げた。
「うおーーーい！そんなとこで何やってんだ？！
子持ちで三十路男の貧乏暇無しで育ちの悪りい田舎から出てきた俺のおじさん！！」
「て、てめ！」
ロングコートの金髪頭から女の子達が潮が引くみてえに、無言で後ずさりする。
「さ、さよなら〜・・・」
そいつは見慣れた黒いサングラスの奥から、憮然とした表情を見せて俺を睨みつけた。
「お前な、折角いい所だったんだぜ。立て板に水みてーにさらさら言いたいこと言いやがって」
「言ったがなんだよ。全部本当の事じゃねーか！サンジ兄ちゃん」
「ちっ！かわいい甥を心配して来てやったんだぞ」
「かわいい甥の学校でナンパすんじゃねーよ！！」
サンジ兄ちゃんはまるで生まれも育ちも東京の人間みてーに、あか抜けた様子で自然と都会の空気と溶け合ってる。
田舎にいるときより洒落込んでるし、長めの黒いコートが高い身長に合ってて、自前の金髪が嫌でも目立つ。
さっきの女達も外人モデルかなんかと間違えたんじゃねーのか？
「来るなら連絡くらいしてくれよな」
俺とサンジ兄ちゃんは校門を出て、師走の街を並んで歩いた。
「仕事のついでに寄ってみただけだ。おめえが真面目にガッコ行ってるかと思ってな」
「メールくらいよこしたっていいだろ。驚くじゃねーか」
実家でレストランやってるサンジ兄ちゃんが、いきなり東京の俺の大学に現れるなんて、それはいくら俺だって驚くっての。
「誰が好き好んで男にメールするか、バカ」
「メールは性別を問わない通信手段だぞ！」
サンジ兄ちゃんは人混みの中を歩いていても、咥え煙草の癖は変わらねえ。
兄ちゃんは店で使うクリスマス用のワインが足りなくて、直接業者から受け取る為、東京へ出てきたそうだ。
帰りはワインを受け取って飛行機で戻るんだと。
バラティエはじいちゃんがいなくなっても、商売繁盛で結構なことだ。
「カヤはどうしてる？」
姉貴同然のビビが引越しして、兄貴同然の俺も家を出て、寂しい思いをしてるだろう。
母のいない小さくて病弱なサンジ兄ちゃんの一人娘。
「最近は少し丈夫になってきてな。お前がいないもんだから、少しでも家の中を明るくしようとしてくれる」
「そっか。カヤもがんばってんだな」
クリスマスのイルミネーションに飾られた都会の街並み。
昼でさえまばゆいこの光を、実家で一人家族の帰りを待つカヤに、見せてやりたいと思った。
「兄ちゃん、今日俺の下宿泊まっていくんか？」
「いや、今夜は友達と飲むんでな。てめえはいつも通り下宿でお絵かきでもしてやがれ」
フーン・・・
極端に友達の少ないサンジ兄ちゃんに、東京時代の飲み友達がいるとも思えねえ。
・・・どうせ女だろ。
家を出て一人暮らしを始めてから、俺にもサンジ兄ちゃんってそういう男だってのが見えてきた。
カヤにとっては優しい父親、ビビにとっては憧れの叔父。俺にとっては父親とも兄貴とも呼べる存在で、頼りになるサンジ兄ちゃん。
でも本当の兄ちゃんはそれだけの男じゃねえんだ。
この東京という街には、今まで俺らの知らなかったサンジ兄ちゃんがいる。
この街だけが知るサンジ兄ちゃんの影がある。
大学近くの喫茶店に場所を移して、俺とサンジ兄ちゃんは話し始めた。
さっきから兄ちゃんは俺に話したいことがあって仕方ない様子なんだけど、なかなかそれを切り出せずにいる。
兄ちゃんらしくない。
新しい煙草に火を点けて、意を決したように大きく煙を吸い込んだ。
「なあウソップ」
「ああ？」
「お前最近ビビちゃん家に行ってねえんだってな」
「まあ、ちょっと」
テーブルの真ん中にお姉さんがメニュー持って来てにっこりと笑ったせいで、ほんの一瞬触れてほしくない話題が切れた。
でも兄ちゃんは容赦がねえ。
「何で行かねえんだ？コブラ義兄さんには世話になってんだろ。ビビちゃんも心配してた。
心配かけるくらいなら面倒でも顔出しとけ」
「忙しくて行ってる暇ねーんだよ。課題が多くてさ」
「とか言ってよ、てめえビビちゃんに会いたくねーんじゃねえの？」
図星。
「べ、別に。無理に会う用事もねーだろ。お互い忙しいんだし」
「ダチの女になっちまったいとこにゃ会いたくねーか」
「・・・。」
ストレートな兄ちゃんの物言いにちょっと腹が立ったけど、運ばれてきたブレンドを飲み込んで気分を抑えた。
ビビはルフィの女になった。
そんな事は今さら兄ちゃんに言われなくても判ってる。
ビビが東京に行く日、ルフィがやった“約束の印”は誰でも知ってる事だし、その事でビビが嫌な印象をルフィに持たなかったのも、事実だ。
そして祖父ちゃんの葬儀の日、今にも泣き崩れそうなビビを横からしっかりと支えていたのは、ルフィだった。
これまでは俺とルフィの二人でビビをいじめっ子からも、吠えまくる犬からも、守って、支えて、笑わせてきたのに。
俺の入り込めない世界を親友と従妹は二人っきりで作り出してしまった。
『ルフィさんがね・・・』
ビビがルフィの事を話すとき、これまでと全然違ってほっぺたを赤くして、夢見るような顔して話す。
子供だったときの俺らの前では絶対に見せなかった顔だ。
ただ一人、少女時代のビビに、そんなまっすぐな瞳で見つめられていた男は、今、俺の目の前で灰を落とす。
兄ちゃんを思い続けたビビの切ない日々を俺は知ってる。
ビビの相手がルフィじゃなく、サンジ兄ちゃんだったらまだ良かったのに。
子持ちの三十男だけど、曲りなりにも普通の人生を送ってる。
レバノンだの南米だの、訳の判らない土地にばかり好んで生きたがる考え無しのバカとは違う。
そりゃ俺だってガキの頃はあいつの破天荒な生き方が、面白くてよくつるんでいたもんだが。
あいつの化け物みてえな強さには、ついて行けねえと思うようになったのは、奴の放浪癖が始まってからだ。
こうなったからにはどんな顔してビビに会っていいのか、判らねえ。
ビビと話した最後の電話。
『だからあんな奴相手にすんなって言っただろ！！』
『だって、ほっとけないのよ』
『そんなにあいつが気になんのか』
『そうよ、それのどこがいけないの』
『あいつに関わるとろくな事がねえぞ。この俺がいい例だ。ましてお前は女なんだ』
『ウソップ、ルフィさんと友達だってこと、悔やんでるとでも言うの』
『あんな奴と付き合ってるとな、絶対お前苦労すんぞ。
昔は俺もつるんで遊んでたけどな、一緒にいるとあんなハタ迷惑な奴、他にいねーって』
どうあってもルフィを庇おうとするビビと、二人の仲を認めたくねー俺との会話は最後は喧嘩ごしで終る。
余計惨めになるだけだから、今はもうビビともルフィとも顔を合わせたくねえ。
「なあ、おめえ何でもっとがんばってみようって思わねーんだ？」
「何のことだよ？」
「お前の気持ちだよ。クソ鼻」
俺の気持ち、そんなもんはもうあって無いようなもんだ。
どうして俺は兄ちゃんに恋するビビをこれまで散々見せつけられて、今またルフィに恋するビビを見せつけられなきゃなんねーんだ。
綺麗だったビビ、かわいかったビビ、雪のように白い肌とほんのり染まったピンク色の頬。水のように波打つ長い髪。
子供時代のビビは俺の記憶に彫像のように張りついて、零れるような笑顔を振りまいている。
今はもう親友の女だ。
「俺はよ、別に、いいんだよ。あいつは従姉妹だってだけでなんも望んでねーもん」
一言一言途切れるように、小さく力弱く吐き出す言葉が俺のせめてもの強がりだ。
「ふーん、ま、そんならそれでいい。だったらしっかりフラれとけ」
「え？」
兄ちゃんはもう用は済んだとばかりに、テーブルのオーダー表を取り上げて立ち上がった。
「兄ちゃん、もう行くんか？」
「悪りィな、あんま時間ねーんだ」
輸入業者との約束の時間が迫ってる。兄ちゃんはほんのちょっぴりの時間を使って俺の様子を見に来てくれたんだな。
親友に好きな女を取られた甥っ子を心配して。
・・・相変わらず心配性でおせっかいで優しい叔父貴だ。
店を出て寒風に晒されると、兄ちゃんはコートのポケットから掌サイズの小包を取り出した。
ぶすっとした表情で、いかにもそれを渡すのを渋りながら俺の目の前にドンと突き出した。
兄ちゃんの本当の用事はこの小包なのか？
「何だこれ？兄ちゃん」
「お前宛てに送られてきた。航空便だぜ、どこの誰が寄こしたか知らねーがな」
俺は手の中でその小包をグルグル回して、眺めまわした。
俺の昔の家の住所で送られた物がバラティエに転送されたようだ。
海外からのラベルが一枚貼ってあるが、それ以外は何の特徴も無いざらついた質の悪い紙に包まれていた。
でも俺にも兄ちゃんにも、その小包が誰から送られてきたものか、一目で判っていた。
ラベルは送り先としてカイロ市のホテル名だけが記載されて人名は無い。
ホテルからの投函て事は、今頃送り主はそのホテルにはいねえだろう。
ラベルに記載された品名は、『Alabaster』。
「アラバスター、エジプト辺りが名産の鉱物だな。日本じゃ雪花石膏とか言うらしいぜ。
質のいいもんは加工すっといい値がつくって話だ。
全く養育費のつもりなんだか、慰謝料のつもりなんだか」
「ありがとうな、サンジ兄ちゃん。わざわざ持ってきてくれて」
「ケっ！」
すまねえ。
兄ちゃんが俺の父ちゃんを良く思ってないのは知ってる。
俺と母ちゃんを残して、仲間と一緒に冒険に出て、そのまま帰らなくなってもう何年になるのか。
母ちゃんが死んだ事も知らずに、外国で見つけたお宝を嬉しそうに俺に送ってくる、そんな無邪気な親父なんだ。
そんな親父を俺は今でも誇りに思ってる。
送られてきた小包は小さくてもずっしりと重く、掌の下で温かかった。
「エジプトの工芸品ってーとよ、アラバスター製の物ってのはすごく高価なんだってな。
ほら、ツタンカーメンとかいう王様の墓あんだろ？
その墓穴からもアラバスターの壷やら、装飾品やらがゴロゴロ出てきたらしい」
「兄ちゃん、高校中退の癖にやけに詳しいじゃねーか」
「俺がそんなもん知るわけねーだろ。友達から聞いた話だ」
・・・どうせ女だろ。
立ったまま無造作に包み紙を剥ぎ取ると、中には真っ白で清らかな光を放つ拳大の石。
抜けるように白く半透明で、ところどころ雪の花を散りばめたような結晶を含んでいた。
兄ちゃんは鼻を鳴らしてろく見ようともしなかったが、俺はしばらくその石に魅入られて動く事も出来なかった。
俺と兄ちゃんは道路に架かる歩道橋を上がって、地下鉄の入り口を探す。
この歩道橋を下りたら、サンジ兄ちゃんとはお別れだ。
歩道橋の真ん中に差し掛かると、天から今年初めての雪が落ちてきた。
兄ちゃんは子供みてーに空を振り仰いで、万と散る雪の花を見てはしゃいだ。
「東京にも雪が降ったか。グレーの空もちったあ綺麗に見えるってもんだぜ」
「兄ちゃん、じいちゃんの喋り方に似てきたな」
「るせ」
灰色の空から舞い落ちる雪の花、そいつは画材を肩から提げた俺の手の甲にも落ちてきて、すぐさま消えた。
この雪はいつまでも降り続きはしないだろう。
「じゃあな、ウソップ。正月には帰ってこいよ、カヤが喜ぶ」
「ああ」
兄ちゃんはコートを翻して、雪降る都会に消えていった。
サンジ兄ちゃんの姿が見えなくなったのを確かめて、俺はポケットに入れたアラバスターを取り出す。
立ち止まったまま、半透明の鉱物を空にかざして透かし見た。
空には美しく舞い踊り、舞い踊っては消える無数の花。
俺の手の中には、たった一つ、白く輝く決して消えない雪の花。
なぜそう思ったのか判らない。
ただ石に向かって無意識にその名を呼んでいた。
「・・・ビビ」
後編へ
すいません。
二年越しで後編に続きます。
2005 12.24 ゆう
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