雪花石膏 (後編）
俺が故郷に帰ったのは、クリスマスをとおに過ぎ、大晦日の除夜の鐘が鳴る時刻。
何でもっと早く帰らねーんだというサンジ兄ちゃんの小言を得意の嘘で誤魔化して、重たい画材を担いだまま、自分の部屋への階段を登った。
俺の小さい従妹は自分の部屋でとっくに眠っていて、これまでしてきたように寝顔でも見ようかと思ったら、
もう大きいんだぞってサンジ兄ちゃんに蹴り飛ばされた。
そして年が明けて、海上レストランバラティエにゼフ祖父ちゃんのいない正月が初めてやってきた。
元旦に書初めすると字が上手になると、死んだ母ちゃんはよく言っていたけど、
今俺の手にあるのは、毛筆じゃなくて、スケッチ用の色鉛筆。
昼を過ぎて何だかとても手がじっとしてられなくてスケッチブックを肩にかけ、赤と黒と青の色鉛筆だけを握って、公園に向かっていた。
「みかんの丘公園」、俺とビビとルフィがいつも一緒に遊んでいた公園。
俺の家にも近く、ルフィの母ちゃんの実家にも近い、小さな海沿いの公園。
今じゃ不審者を警戒だとか言って、こんな場所で遊んでいる子供なんて一人もいねえ。
嫌な世の中になったもんだぜ。
ペンキの剥げた赤いブランコ、あれをルフィが勢いよく押し過ぎて、乗っていたビビが泣き出した事があったっけ。
あっちのジャングルジムは俺達の海賊島。
セメントの土管の中に、王女ビビ姫は捕らえられているんだ。
たとえ相手が６年生の凶悪海賊だって、船長ルフィは絶対に負けなかった。
ビビは俺とルフィのの大事なお姫様だったから。
溢れそうなぐらい思い出が尽きない場所なのに、なぜか俺がスケッチブックに描いていたのは冬の息吹で丸裸にされた一本の痩せた楡の木。
寒風に晒されて、じっと耐えるように暖かくなる日をも待っている、そんな木だ。
動きも無く、枯れたような植物なんて今まで描いたこと無かった。
俺はこれまで人間のくるくる変わる表情が面白くて、人物画ばかり描いていた。
写真でその瞬間を切り取るのも、嫌いじゃねえ。
寒い中誰もいない公園で、丸裸になっていても、確実に生きていこうとしている一本の木。
これってなんかかっこいいじゃねーか。
立ったまま色鉛筆をせわしなく動かすと、白い自分の吐息が視界を隠す。
このまま自分も一本の木になってしまいそうに、絵の中に埋没していく。
「ウソップ」
「おお」
呼ばれた方向を振り向きもせず、俺は手を動かしたまま無愛想に返事をした。
ビビはひっそりと近寄ってきて、俺の背後に立った。
ブーツの踵が忘れ去られた落ち葉をカサリと踏む。
白いコートを着て、白い帽子を被ったビビは人の匂いを感じさせず、まるで突然現れた雪の妖精みたいだった。
俺はずっと鉛筆を動かしていて、一度も正面からビビを見ようとはしなかったが。
見なくても判る。
親友の女になった従姉妹の美しさ。
「お家に行ったら、ウソップここにいるって聞いたから。懐かしいわね」
「伯父さんは？一緒に来たんだろ？」
「今サンジお兄ちゃんに年始の挨拶してるわ」
「そうか兄ちゃん家長だからな」
ビビとコブラ伯父さんは、毎年元旦の昼を過ぎると、うちに年始の挨拶にやってくる。
伯父さんがどんなに偉くなっても、祖父ちゃんが亡くなっても、それは変わらずに続けられてる。
祖父ちゃんが亡くなったのをきっかけに、店だけでなく家までも継ぐ羽目になったサンジ兄ちゃんは、元旦から始まる挨拶攻撃に、
堪らず白旗を上げそうになってるけどな。
だから俺もこの公園に逃げてきたってわけなんだけど。
「どうしてたの？」
「何が？」
「何がって、ウソップがよ。だって東京の家にちっとも遊びに来てくれないから」
「見ての通り大学の課題が忙しいんでな。こないだも俺の水彩画が世界中から集まった８千点もの応募を勝ち抜いて、金賞に輝いたばかりだ」
「そう。すごいわね」
ビビときちんと話をするのは随分と久しぶりだ。
とりとめの無い会話は、俺達がいとこ同士って事を今さらながらに思い出させる。
ビビは俺の横に並んで立って、俺が描いている楡の木を見入った。
何だか俺はビビの顔を見るまいとして、鉛筆を動かしているような気がする。
見なくてもビビの声はしっとりと俺の感覚に入り込んできて、ほんの少し俺の胸をざわめかせる。
そんな気分を誤魔化す為にも、俺のスケッチブックには次々と描線が埋め尽くされていった。
「サンジお兄ちゃんたらね、さっき荒れてたわ」
「だろ、俺も逃げてきたんだ」
「クリスマス用に仕入れたワインが思った以上にはけなくて、大損したって言ってたわ」
「ああ、ほんと兄ちゃんは商売が下手だな」
年末にクリスマスのカップル客を当て込んで、高級ワインを無理をして仕入れたサンジ兄ちゃん。
店を継いで初めてのクリスマスディナーで、調子こいていたのは判るが、自分の作る料理に酔い過ぎた。
経営者としては大きな失敗だ。
「お兄ちゃん大丈夫かしら？心配だわ」
「兄ちゃんも心配で、バラティエも心配で、その上病弱なカヤも心配か。
ビビお前は何もかも心配のし過ぎだ」
「！」
「店の事は兄ちゃんが何とかするさ。俺達にゃどうしようもねえ」
「・・・うん」
もし店が危ない状態になっても、サンジ兄ちゃんはコブラ伯父さんからの援助を受けたりしねえだろう。
だから俺達にしてやれることは何も無い。
サンジ兄ちゃんは経営面じゃまだまだ経験を積まなきゃならないな。
じゃねえと草葉の陰から祖父ちゃんの、義足蹴りが飛んでくるぜ。
「ったくよ、カップル客がクリスマスにいつまでもレストランで酒飲んでるわけねーじゃねえか」
「それもそうよね」
「兄ちゃんらしくもねえ。そんな時に彼女の前で好きなだけ酒飲む男なんていねーって。
その後行くとこあんだからよ」
「やーね、ウソップったら」
ほんの少し頬を赤らめて、口を尖らすビビはその後恋人達がどこへ行くか知っているんだろう。
なあ、聞いても怒らねーかな？
去年のクリスマス、お前はどこで何してた？
お前は誰かの腕に抱かれてた？
それとも滅多に自分の傍にいない男を思って、一人枕を濡らしてた？
その時、突然降ってきた白い花のひとひらがビビの手に落ちて消えた。
「あ、雪」
歌うような声が空間に響いて、俺の妄想を途切れさせた。
子供みたいに舞い散る雪を手に取ろうと白い指が冷気に晒される。
その指が息を飲むほど綺麗だった。
でもその指一本さえ俺のものじゃない。
俺は本当に嫌な奴だ。
女々しい臆病者で卑怯者だ。
覚悟を決めて、ここでビビを待っていた筈なのに。
もうビビに対して何の期待も夢も抱いちゃいねえのに。
俺とビビは小さい頃から仲の良いいとこ同士だってだけなのに。
けど俺は世界一の大嘘吐きだ。
それだけは誰にも、ルフィにも負けねえって自信があるぜ。
だから自分の心に嘘を吐くのなんて、何て事ねーんだ。
だって、ずーっとそうしてきたんだから。
だから今ここでけじめをつけてしまおう。
白い指を踊らせて、ビビは消えていく雪を追いかけようとする。
手に取ると、一瞬で消えていく雪の花。
「この街の雪は本当に儚いわね。積もることもできないで、すぐ消えちゃう」
「ああ。けどよ、決して消えない雪の花もあるんだぜ」
「なあに？それ？」
「本当にあるんだ。今見せてやる」
目瞑ってろ、と言うとコクンと頷いて素直に従うビビ。
全くこれが従兄弟の俺じゃなかったら、何されるかわかんねーぞ。
俺とルフィとサンジ兄ちゃん以外の男の前で、目を閉じたり、簡単に言う事聞いちゃだめなんだぜ。
「手、出してみろ」
間を置かず目を閉じたまま差し出されるビビの白い手。
胸にこみ上げる抑えきれない愛しさ。
その白い手を引っ張って、細い身体を力いっぱい抱きしめる自分がいた。
俺の頭の中に。
「ウソップ？」
手に乗せられたひんやりとした感触に驚いて、ビビはゆっくりと目を開けた。
ビビの掌には彫刻され研磨され、5センチくらいのストーンカメオに姿を変えたアラバスター。
「アラバスター、雪花石膏ってんだ。石の中に雪の結晶が入ってるみたいだろ」
「うん、・・・・これ私？」
ビビは驚いた顔で俺を見上げる。
カメオに描かれた横顔は幼い頃のビビ自身。この公園で俺とルフィと遊んでいた結い髪の女の子。
長い髪を一つに束ね、大人びた憂いをほんの少しだけ見せるあどけない少女。
父ちゃんから送られた雪花石膏。
サンジ兄ちゃんが届けてくれた石を俺は下宿に持ち帰り、しばらく眺めてから彫刻刀を振るった。
祖父ちゃんが入学祝にくれた彫刻刀で、俺は石を削り、像を描いていった。
彫刻刀はバラティエ御用達の包丁職人を祖父ちゃんが締め上げて、特別に作ってもらった刃だ。
一本一本技の粋を凝らした刃で、俺はビビを石に刻んでいった。
そうする事で、自分の気持ちを石に閉じ篭めようと。
これまでの思いを全部、この石の中に吐き出して、封じ込めて、終わりにしてしまおうと。
石を刻んでいくうちに、自分がこんなにもビビが好きだったことを初めて知って、ほんのちょっぴり涙が零れた。
ビビって奴は家無しで親無しの俺なんかには、初めから手の届かない娘だったんだ。
いとこでなかったら、口をきく機会も無い上流社会のお嬢様。
だからこそ人と人とを隔てる壁なんか、問答無用にブチ壊してくれるルフィに惹かれたんだ。
俺はいいのさ。いとこだってだけで。
だからよ、負け惜しみくらいさせろよな。
「割と上手く出来てんだろ」
「うん、とっても綺麗」
ビビは手の中に在る自分自身を見つめた。
幼い自分を懐かしむように、愛おしむように、そっとカメオを包み込む。
「それ、やる。ピンとか着けてねーからカメオらしく使えねえかもしんねーけど」
「ありがとう。すごく嬉しい。大事にするわ」
貴婦人の胸元をブローチやペンダントとして飾るカメオ。
大概が成熟した女性の横顔を彫ってあるもんだが、俺のアラバスターは消えない雪を孕み、幼い少女を刻んでる。
父ちゃんからの何年ぶりかの便りを、こんな風にしちゃったけど、叱られはしないと思う。
雪花石膏、決して消えない雪の花。
空から落ちてくる雪はあっという間に消えちまうけど、探せば世の中には消えない雪もあるんだぜ。
例えば遠くに行ってしまった父親だとか、親友の女になった従姉妹との間にも、
いつまで経っても決して消えない何かがある。
何年行方が知れなくても、俺と父ちゃんは親子だ。
親友の女になろうと、俺の知らない誰かの妻になろうと、俺とビビはいとこなんだ。
儚く見えるものでも、決して消えないものがあるんだぞ、って父ちゃんは俺に伝えたかったんじゃねーかな。
それを絆というんじゃねーかな。
カメオを作り終えた時、その事に気づいて、妙に頭がすっきりして空っぽになった。
カメオを渡して、これまでの自分の気持ちに決着をつけよう。
サンジ兄ちゃん、これが俺のフラれ方だぜ。
願う事が許されるなら、この石に刻まれた少女時代の自分を、どうか忘れないでくれ。
この公園で日が暮れるまで遊び回ったあの頃を。
「さて、そろそろ帰るか」
「うん！」
舞い散る雪の中、真冬の冷えた公園を俺達は足早に駆け出した。
まるでこの公園でオニごっこをやった時みてーに。
海上レストランバラティエがいつでも俺達の帰る場所。
走りながら息を荒げてビビが言う。
「あ、私バラティエのおせちまだ食べてないわ」
「お前ルフィと付き合うようになってから、食い意地が張ってきたな」
「ひどーい！・・・でもそうかも」
冗談止めてくれよ。
いくら好きだからってお前まで食い意地魔人の真似するこたあねえだろう。
「俺な、もうお前の絵は描かねえから」
「前はたくさん描いてくれたのに、どうして？」
「お前ブスになったから」
「何それ？私そんな風に言われたこと無いわ！」
そりゃそうだ。金持ちのお嬢様でとびきり美人のお前をブスなんて言う男はいねえ。
言えるのはこの世にただ一人、世界一の大嘘つきで、いとこであるこのウソップ様だけだ。
家に着いたらサンジ兄ちゃんのヤケ酒に付き合ってやろう。
兄ちゃんは頭わりいから、自分が俺に負けない心の嘘つきだって事を知らねえんだ。
本当はビビをルフィに取られて一番悔しい想いをしてるのは、兄ちゃんなんだぜ。
だって兄ちゃんはビビがごく当たり前の女の幸せを手に入れることを望んでいたから。
俺はもう子供じゃねえから、兄ちゃんが正直者じゃなくても、黙ってやり過ごしてやるよ。
きっとある筈なんだ
決して消えない雪の花が
俺と兄ちゃんの間にも
俺とビビの間にも
俺とカヤの間にも
俺とコブラ伯父さんとの間にも
サンジ兄ちゃんと俺の父ちゃんとの間にも
死んだ祖父ちゃんが残した、決して消えない絆がさ。
だって俺達はみんな、ひとつに繋がった家族なんだから。
fin
前後編の間が随分空いてしまいましたが、取りあえず終了。
家族の絆やありがたみって一人立ちして始めて気づくものですね。
「いちばん好きな人」「彼女と彼」「雪花石膏」と、書き連ねて
ルビウソ三人三様の思いに決着を着けられたかな？と思います。
子供時代を卒業し、大人になった彼らは、
これからそれぞれのゴールイン目指して一直線に走っていきます。
皆様もご存知のように。
2006 02.18 ゆう