「Sailing days-9」



ヨットレースが終わり、夏休みはこれからだってのに、俺ときたらナミさんをデートに誘う暇も無く、毎日店に缶詰になってる。
普通飲食業ってのは、２月と８月は客が入らないもんなんだけど、うちは別。
８月は近くに海水浴に来る家族連れや、マリンスポーツに勤しむ奴らが、腹減らしてなだれ込んでくるし、
２月はここいらの名物、牡蠣の水揚げが最盛期で、バラティエでは冬季限定オイスターメニューが目白押しだ。
だけど今年の夏のクソ忙しい理由は海水浴客だけじゃなかった。
レースが終わってすぐ、二人のコックがクソジジイに暇を願い出た。
二人は共同出資して新しい店を出したいと言う。
ジジイの奴、喜んで暖簾分けをしやがって。残ったこっちはたまったもんじゃねーっての。
ただでさえ、人手不足だってのに、一度にコックが二人も辞めるってんだぜ。
冗談じゃねえよ。
少しは働いてる人間のことも考えやがれ、クソジジイ。
額に滲む汗を手の甲でぬぐいながら、フライパンを反していると、段々頭が物を考えられなくなってくる。
使う頭脳は料理の知識と味覚、盛り付けの視覚くらいで、余計な雑念は一切頭の中から消えていく。
そして一皿の逸品を作り上げたとき、何ともいえない達成感や満足感で一杯になって、自然に口元が緩んでいたりするわけだ。
気がついたら俺は何も考えずに料理に没頭したまま、その年の夏休みを終えようとしていた。
高校最後の夏だったのに、「損した」って感じがしないのが不思議だ。

ゾロは国体の選手に選ばれ、夏休みの後半から強化合宿に入った。
近県の剣道家を一同に集めて、鍛錬に励むんだって。
ご苦労なこった。
忙しさにかまけて、ナミさんにも会っていない。
電話やメールは何かと暇を見つけては、送っていたけれど。
彼女は海洋学の勉強に一層のめり込んでいるようだった。
それぞれが自分の道を歩きだした。
俺はそんな風に思っていた。

けどそれは俺だけの勝手な思い込みでしかなかったんだ。


朝早く、仕入れの帰り道、俺は市街地をワゴン車で流していた
朝っぱらから残暑の陽気は厳しいが、クーラーを利かした、車の中は快適だ。
ゆっくりと商店街を抜けると、オレンジのレディが一人、歩道を歩いていた。

「か〜のじょ、乗ってかねー？」
「サンジくん！く、車！」

俺の声にナミさんは驚いて振り返った。
なんたって、俺もナミさんと同じ１７歳、免許なんか持ってねーよ。

「うち帰るとこ？送ってくよ〜」
「い、いいわよ。おっかないわ。」

車を徐行させ運転席からナミさんを誘う。

「大丈夫だって、俺のキャリア半端じゃねーから。」
「で、でも・・・」
「早く乗ってよ、知り合いに見つかるとやべーし。」

俺は助手席を開けてナミさんを車に乗せた。半ば強引。
こんなことならもっとましな車で来るんだった。
ワゴン車の後ろの席には、仕入れたばかりの野菜がどっさり乗ってるし、新鮮な魚貝類を積めた箱が並んでる。
色気ねーの・・・

「しばらくだねえ、ナミさん、元気してた？」
「うん、私は元気よ、サンジくんは？」
「変わりねーよ、まいんち、まいんち料理ばっか。ナンパしてる暇もねーや。」

ナミさんの笑顔がふっと緩んだ。
運転中の視界の隅に、彼女の横顔が入る。
やっぱり綺麗だ。
以前よりもっと大人っぽい、しっとりとした印象受けるな。
あれから何ヶ月も経ったわけじゃないのに。
ほんの数週間前のことなのに。
あの海で弾けるように笑っていた少女は夢への切符を手に入れて、何かを一つ踏み越え、大人の女性になりつつあるようだ。
益々胸を揺さぶられる。

「サンジくん、車の運転大丈夫なの？」
「ああ、へーきへーき。俺、１６でバイクの免許取ってから、仕入れに行かされるようになってさ、
ニ輪に比べりゃ普通車なんてクソみてーなもんだ。」

去年からクソジジイは週に１度、俺を仕入れに行かせるようになった。
素材第一と言い切る料理人がよくもまあ、俺なんかを仕入れに行かせるようになったもんだ。
段々年と共に、失った片足が付け根の部分からシクシク痛むらしい。
俺が仕入れから戻ると、義足を外してマッサージしていた手を慌てて止める。

車窓の向こうは、眩しい光が流れていく。
太陽光が窓に透けて、ナミさんの横顔を綺麗にきらめかせた。
俺達はこれと言って話題を探さなかった。
俺はナミさんが横に座ってるだけで、充分イイ気分だったし、ナミさんはすごく穏やかな笑みを口元に浮かべていた。
こんな彼女は余り見たことが無い。こんな、全てが満たされたような彼女は。

静かな車内に携帯の着信メロディが鳴り響いた。
ナミさんはカバンから二つ折りの携帯を取り出して、耳に当てる。

「もしもし、・・・うん、・・・今、ちょっと、・・・じゃ、また。」

短いやり取りでナミさんは電話を切った。
俺から身を隠すように、窓の方を向いて、やっと相手に聞こえるくらいの小さな声で。
何故隠すの？なんで、俺にコソコソ遠慮して電話に出なきゃならないわけ？
電話の相手はわかってる。
今頃は長野の山ん中で修行に明け暮れている、あいつだ。
ナミさんは俺とゾロの番号を１グループにして、着信メロディを設定していた。
聞き慣れたその着メロは、彼女の大好きなグループの名曲。
二人しか設定してねえグループだ。
俺は今ここで運転してんだから、誰からかかってきた電話かは一発でわかる。

「切んなくてもいいのに、ゾロだろ。」
「え？うん、まあそう。」
「まずいわけ？俺が横にいると。」
「べ、別に悪いわけじゃ。」

ナミさんは顔を窓の外に向け、風景に逃げ道を求める。
俺達は黙り込んだ。
ナミさんの電話の向こうには俺の知らない二人がいるらしい。
俺は嫉妬とも怒りともつかない感情で、表情が険しくなる。
やり場のない胸クソ悪ィ思いが腹の中に溜まって、ブチ切れそうだ。

「よく、連絡してくんの？あいつ。」
「・・・ううん、練習が忙しいらしくて、タマにしか。あいつメル打てないし。」
「ふうん。」

海沿いの国道を緩やかに車を走らせた。
もうしばらく行った所で、坂道を右折すれば、やがては彼女の家、みかんの丘が見えてくる。

「いつからなの？あいつと。」
「いつからって？」
「デキてんだろ。おたくら」

ヨットに乗っている間、俺は二人を“おたくら”なんて一括りにした呼び方はしなかった。
こいつらがデキてるってのはさっきの電話のやり取りだけで、何となく判った。
そこいらは長年伊達に女を追っかけてるわけじゃねえ。
それくらい、雰囲気で判るよ。

「・・・そんな言い方しないでよ。いつからだなんて、そんなの私の方が聞きたいわよ。」
「なんで？」
「付き合ってくれって言われたわけでも、好きって言われたわけでもないもん。」
「何だそれ？」

ナミさんは明らかに困惑しながら、俺に対して申し訳なさそうに、身体を小さくしてシートに収まっている。
でもその様子は益々俺のプライドを傷つけた。

「ゾロにね、合宿に入る前の日に呼び出されたの。それから何となくそんな雰囲気になっちゃって。」
「勢いでヤっちまったわけ？」
「・・・そんな言い方しないでってば。」

それでも俺の質問をナミさんは否定しない。

「へえ、ナミさん、あいつに惚れてんだ。
　なーんだ、だったら俺に一言言ってくれりゃいいのに。俺、レース終わってから何回君に好きだって言ったかなあ。」
「サンジくん・・・」

ムカつく頭の中とは裏腹に、俺の言葉と表情は冷えていった。
普段誰にも使うことの無い意地の悪い言い草。
嫌な奴だ、自分でもそう思う。
俺はナミさんを苛めようとしている。
自分の受けた傷の痛みを見せつけようとしている。
俺にとっては三人とも大事な友達だった。
だから、二人が好き合って、付き合うようになるのは構わない。
でもそれを何で俺に一言、言ってくれなかったんだ？
俺は三人だと思っていた。
でも本当は二人と一人だったんだ。
俺一人がいつの間にかカヤの外で、二人の世界が出来上がってた。
信じていた、二人共。
ゾロにとっても、俺はたった一人のダチだったはずだ。
余り自分のことを話さないあいつでも、どうにも気持ちの持って行き場が無いときは、
二人でコーラ飲んだり、煙草吸ったりしながらたらたら語り合った。
そしてナミさん、君は俺の気持ちを知りながら、俺には何も答えずに、あいつに抱かれたのか。

「サンジくん、私ね、よく判らないの、自分の気持ち。」
「好きなんだろ、あいつのこと。ただそんだけのことじゃん。」
「好き、なのかな？私、あいつの事がさっぱり判らない。
　ぶっきらぼうで粗野で、自己ちゅーで、ひとの気持ちなんてまるで考えなくて、・・・単純で。
　そんなあいつに気持ちを乱される自分がすごく歯痒くて、あいつのこと考えると、いつも頭に来るのよ。」
「寝れば、判るとでも思った？」
「・・・うん、少しは。」

ナミさんは自分で自分の気持ちが判らないという。
きっとゾロも初めて恋した勝気な娘にどんな態度を取っていいか判らずに、益々彼女を迷わせてる。

・・・馬鹿な奴らだ。

「俺、結構マジで君のこと口説いてたのにさ。女と付き合ったこともねえダチに先越されるとはね。」
「サンジくん・・・」

何でも話し合える友達だと信じていた。
何でも話し合って、乗り越えて、優勝までやってのけた。
全ては虚構だったのか。

「どうして言ってくんなかったんだよ？」
「・・・タイミングっていうか・・・」
「友達だったじゃん、俺ら。」
「うん」

みかんの丘が見えてきた。
俺は無感情な運転操作でシフトダウン、信号待ちのために停止ラインの前で減速した。

「ねえ、ナミさん、裏切りって言葉知ってる？」
「！！・・・そんなッ！」

俺は知らなかった。
自分がこんなに嗜虐的な人間だったなんて。
ゾロへの思いに心かき乱される彼女を、さらに傷つける必要なんてどこにもない。
でも整理できない感情を彼女にぶつけなければ、俺はまともに運転なんかしてられなかった。
女の子にそんな真似をするなんて、生まれて初めての恥辱だ。
そして、どうかこれっきりであってほしい。

信号前で完全に停止すると、ナミさんは助手席のロックを外し、勢いよくドアを開けた。
飛び降りるように、車から離れる。
助手席に残したバッグを掴んで、力いっぱい、ドアを閉めた。
ドアが完全に閉まる直前、瞼の端に銀の粒。
と、捨て台詞。

「言えるわけないじゃない！私、この世で一番傷つけたくない人は、サンジくんだもん！」

言えなかった、友達だったから。
でも友達だからこそ、言ってほしかった。

ナミさんはそのまま坂道を駆け上がり、みかんの丘に消えていった。
俺に言い訳の一つもさせずに。
俺よりもゾロが好きだとも言わずに。


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その日のデザートは俺の気に入らない盛り付けで埋め尽くされ、
舌が鈍っているのか、頭が鈍っているのか、思うような味が出なくて、イライラした。
閉店後、バイト先のカウンターバーへ行く。
クソジジイは給料くんねーから、俺は赤髪のシャンクスの経営するカウンターバーで深夜のバイト。
疲れるけど、バーに来る客の話しを聞いてるとそれなりに勉強になる。 マスターはベンさん。
バイトを終えると、帰り道の国道にバイクの排気音を響かせた。
エンジンはガソリンと一緒に俺の感情を吸い込んで、爆発する。
海沿いのコースを明け方まで走り続け、自宅なんぞとっくに通り越し、もうすぐ隣県で朝日を迎える。
次々に俺に向かってくるコーナーを、親の仇みたいなスピードでクリアした。
ニーグリップを効かせて、大きなRを攻める。
コーナーで身体を持っていこうとする遠心力は、ヨットのセイリングを思い出させて余計に俺を苛立たせた。
なら、もっと速く、もっと鋭く。
悔しさを振り切るように更にスピードを上げる。
メーターはレッドに入りっぱなしで、見るのも飽きた。
普通じゃないスピード感覚が全身に張り付いて、無駄な動きを取らない。
ガードレールの外はどこまでも岩場の磯が続く。
（落ちれば命はねーな）
スピードに晒されながら、ぼんやりと考えた。
でもそれさえ、もうどうだっていい。
ただ直線で限りなくシフトを上げ、アクセルを開けて、スピードを増す。
コーナーは大口を開けて俺を食い殺そうとするが、バイクと一体になった俺は弾丸。
このまま全てを打ち抜いてしまえればいいのに。

ライトに照らされたそれは、俺の意識をはっきりさせるには突然過ぎた。
それはいきなり道路に飛び出してきて、俺の目の前で黒い影になった。

（猫？）


避けたラインはほんの僅かのはずだった。
でもそれは異常なスピード感覚からくる錯覚。
実際には自分で予想もしなかったラインをタイヤが踏む。
制御していたつもりだったのに、ステアリングはとっくに方向を変えるパーツではなく、
両手の置き場に成り下がっていた。
避けたライン上で後輪が滑った。
何かを巻き上げた？すかさず後輪がロックする。
反動で身体がバイクもろとも宙に跳ね上がった。

（あ！）

頭に浮かんだのはそれだけ。
俺はガードレール下の岩場に叩きつけられ、うつ伏せのまま海水に身を浸した。
身体中のあちこちから血が流れていくのが判る。
ヘルメットを被っていたのに、額からも血が流れて口の中に落ちた。
全身打撲で骨も折れてんだろうけど、不思議と痛いと感じなかった。
岩場に寄せる海水が、益々俺の血液をさらっていく。
身体から血が抜けていけばいくほど、頭がふわーっといい気分になって、視界がかすんでいった。

（やべ、死ぬかな？）

口の中はいつのまにか血の味だか、海の味だかわかんなくなった。
このままだと失血死するか溺死だな。
でも指一本自分の思い通りにはならず、そのまま岩場に倒れたままどうすることもできねえ。
薄れていく意識の中で、俺の視界に最後に入ったものは、
一緒に岩場に落ちた愛車が炎上する、赤い炎だった

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