「Sailing days-10」 なんだ？これ・・・ 何？ バイクごと海に落っこちてから、初めて戻った意識はそんなものだった。 目は開いてる。耳も聞こえる。 でも自分が今どうなっているのかさっぱり判らねえ。 身体は動かない、いや動こうという意志も浮かばねえ。 首から下が無いような気もする。 目に入るものは、自分の真上にある、でかくて眩しいライト。 ああ、あれって病院の手術室にある奴だな。 それから、耳につく心電図の音。ピッピと鳴る電子音。 やっぱテレビとおんなじなんだな。 するってーと俺は手術されてんのか？ 回りに人がいっぱいいる気配がするけれど、人の声はトーンが低くて聞き取れねえ。 ライトの端のメタリックに映った血だらけのモノが自分の身体だと気づくのに随分かかった。 随分？それってどれくらい？ ２秒？５分くらい？・・・それとも１時間？ 次に目が覚めたときは真っ白な部屋にいた。 四角くて、ただ真っ白な部屋で小さな窓が一つ。 音は聞こえない。 身体中が拘束具みたいなものでベッドに縛り付けられているような気がする。 指先の一本まで。 動けねえ、意識がはっきりしねえ、俺死ぬのかな。 ちっとも生きてるような気がしねえよ。 窓の外にふわりと舞った白い花のようなもの。 「・・・・・・母さん・・・」 母は生前と変わらない姿で、いつも大好きだったお気に入りの服を着て、窓の外から俺見て微笑んでいた。 「母さん、俺を迎えに来たの？」 母は窓から入ってこられない。 俺を見ながらずっと優しく笑っている。 でも母さん、俺、動けねーんだ。その窓を開けてやれねーんだよ。 母さん、相変わらず綺麗だね。 どこへ行っても俺の母さんは誰よりも綺麗で、俺のたった一つの自慢だったんだ。 やっと会えたね、母さん。 すっげえ会いたかった。 俺さ、一人ぼっちなんだぜ。 あんなに優しかった姉ちゃん達もヨソに嫁に行っちまって。 友達もいなくてさ。 いや、いたんだよ。ほんのちょっと前まで。 でももうダメなんだ。 あいつらと普通に顔合わせられねえ。 彼女は好きだったし、あいつも気の合う奴だった。 そして彼女が選んだのはあいつだった。 俺じゃダメだったんだ。俺は誰よりも彼女に必要とされたかったのに。 全ての輪から弾き出されたような気持ちだよ。 寂しくて、ここからどこへも行けねえ。 だからさ、連れてってよ。 母さんと楽しく暮らしたあの家に。 過去に。 母はゆっくりと窓から入ってきた。 動けない俺が差し出した見えない手を取って。 母は俺のベッドの横に立って、俺の頬を撫でてくれた。 細い指で髪を梳いてくれた。 小さい頃、いつもそうしてくれていたんだ。 懐かしい感触が俺の気持ちをほぐしていく。 母が俺に触れる度に、胸に溜まった嫌な感情や、いやらしい欲目が拭われていった。 大きくなって身についた毒が、少しずつ取り去られていって、俺は子供に戻っていく。 空っぽになって。 『・・・イッテ、クレルナ・・・・』 え？何？ 音の無い世界に響く低い声。 その声に母の手が止まった。 母は俺から視線を移し、声の主をじっと見つめる。 『・・・逝ってくれるな、頼むから、・・・連れていってくれるな・・・』 クソジジイ？そこにいたのか。 そのとき初めて気がついた。 ベッドサイドの丸椅子に座った父親の姿。 こんなジジイは見たことがねえ。 小さな椅子にでかい体を乗っけて、背中を丸めて。 青白い顔ををして、深い皺がいつもより目立つ。 膝の上で固く結んだ両の拳が、小刻みに震えてる。 気弱で虚ろな表情だ。 ブツブツと口の奥で何度も呟いている、「いってくれるな」と。 母は父に向かって微笑みかけたけど、クソジジイは気づかない。 二人は違う世界にいる。 それでも母は愛しげにその男を見ていた。 「ったく、親に断りも無く、勝手に死ぬんじゃねえ、バカが。」 その言葉は本物の音として俺の聴覚に入ってきた。 俺、バカ？ 「腕が無くなろうが、足が無くなろうが構やしねえ、命だけは手離すな。」 何言ってんだ、こいつ。 腕が無くなったら、てめえのレストラン継げねーじゃん、それがあんたの望みだろ。 足が無くなったら、てめえとおんなじになっちまうじゃねーか、冗談じゃねえ。 ジジイは俺の枕元に腰かけたまま、ブツブツと念仏のように、繰り返す。 俺のベッドを挟んで、父がいる、母がいる。 それは望み続けた夢の実現。 ガキの頃からどれほどこの光景を夢見ただろう。 母さんはクソジジイの手に触れていったけど、異相にいる男は女の優しい手に気づけない。 それでも母は笑って俺に視線を戻した。 『あなたはどうする？』 音にならない声が聴こえた。 昔と変わらない優しくて、澄んだアルトの響き。 ごめん、母さん。 俺、一緒にいけねえ。 俺まだやらなきゃならないことがある。 この男との勝負がまだついてねえ。 死んでらんねーよ。 こいつを超えてこいつよりでかい男になって、そして言わせてやるんだ。 貴女のことを心から愛していたと。 母はにっこりと微笑んだ。 ゆっくりと俺達の傍から離れ、また窓に吸い込まれていく。 さよなら、母さん。 来てくれてありがとう。 会えて嬉しかった。 頭の中がまた真っ白になっていく。 さっきとは違う、暖かい眠りが俺の全身を包み込んだ。 母の声は、俺にはもう届かない。 ＊＊＊＊＊＊＊ 「キーちゃん、キーちゃん、やっと目を覚ましたわ。」 「やれやれ、やっとお目覚めですか、うちのバカ長男は。」 バカ？バカって誰のことだ？ なんかついこないだも聞いた気がすんぜ。 「キー姉ちゃん、ちー姉ちゃんも、・・・・？、俺、どしたの？」 「どうしたもこうしたも無いよ、あんた覚えてないのかい？バイクで岩場に落ちたんだよ。」 真っ白い四角い病室で、ハナの長い長女、キーナ姉ちゃんが呆れ顔で言った。 「良かったわ、あなた２日も意識が無かったのよ。」 次姉のティティ姉ちゃんは気立てのいい美人だ。 愛称はちーちゃん。 二人は俺の傍で、点滴の残りをチェックしたり、毛布を直してくれたりしていた。 この年で姉達に世話を焼かれていたかと思うと、ちょっと照れ臭い。 「俺、助かったんだ、・・・・ダメかと思った。」 「ま、危なかったんだけどね、実際。」 「明け方に救急車で担ぎこまれたのよ、あなた知らない？」 頭を回転させて記憶を探ってみる。 だめだ、わからねえ。海に落ちてから、そっからの記憶がねーや。 少しずつ、頭がはっきりしてくると、とんでもねえ激痛が俺を襲った。 背中はでかい石で潰されたような気がするし、 両肩はギブスで固定されていて、まるでペンチで締め上げたみてえな痛みだ。 頭にも包帯が巻かれている。 右の側頭部あたりがぐわんぐわん痛む。 「うう・・・いってえ、痛くねーとこがねーよお。」 「目が覚めたら麻酔が切れる頃だと看護士さんが言ってたわ、痛み止めをお願いする？」 「うん、お願いする。」 優しいちー姉には、つい甘えてみたくなる。 「全くもう自業自得って奴さ。公道を１２０キロでぶっ飛ばすなんて。 命は一つっきゃ無いんだよ。」 ああ、それもどっかで聞いた気がするな。手離すなとか、なんとか・・・ 「違うよ。」 「どお違うってんだい！？」 「・・・・・１４０は出てた、と。」 「このバカ！」 バカバカ言うなよ・・・ 「無茶も大概にしな。１７にもなってお父さんに余計な心配かけんじゃないの。」 キー姉はぴしゃりと言い放つ。 俺、怪我人なんだからもっと労わってくれても・・・ でもこんくらい強気じゃないと、あのヤソップの女房は勤まらないのかな。 「クソジジイが、あいつが俺の心配なんかするわけねーじゃん。」 「サンジっ！！」 怒るキー姉ちゃんをちー姉ちゃんが押し留める。 ほとんど年の違わない二人の立場は対等だ。 「お父さんはあなたが病院に担ぎ込まれてから、ずっと傍についてたわ。 　お店の始まる時間まで、つきっきりで。 　昼間は私達のどっちかが、様子見てたけど、夜はお父さんが付き添ってたのよ。」 夢とも現実ともつかない記憶が蘇る。 でも、知らねえ、俺はそんなこと知らねえ。 ジジイが俺の心配してたなんて、・・・・知らねえ！ 「店の手が足りなくなるとでも思ったんだろ。」 つい、二人にそっぽを向く俺。 でも寝返りはできねーし、首捻るだけで、いちいち痛てーんだぜ。 「何言ってんだい、この子は！ 　いい？岩場で炎上したバイクを通りすがりのトラックが見つけてくんなきゃ、 　あんた今頃、満潮の波に浚われて、死体も残んなかったんだよ！ 　救急車が来ても失血死寸前で、保存血液が足りなくて、お父さんがどれだけ輸血したと思ってんの！」 「ジジイが俺に輸血？なんで？」 「親子だからに決まってんでしょう！！」 「お父さんたら、必死になってたわよ、お医者さんに向かって死なせたらタダじゃおかねえって。」 嘘だろ、やめてくれ。 俺の為に必死になるクソジジイなんて、見たくねーし、想像できねえ。 「親子ったって、怪しいもんだろ？本当の父子かなんて。」 「ほんッとバカだね！あんたがお父さんの子でなきゃ誰がお父さんの子だってのさ！」 「え？？」 「当ッたり前だろ！そんなこと気にしてたの？」 いきり立つキー姉をまたまた抑えるちー姉。 「まあ、いいじゃないの、キーちゃん。疑問に思うのも無理無いわ。 　お母さんが亡くなってから、いきなり私達が、父親と姉よって言っても。」 ずっと気になっていた。 ずっと気にしていた。 でも今俺の身体の中には輸血によってクソジジイの血が流れている。 血が繋がっているかいないか、もしかしてそれは大した問題じゃなかったんだろうか。 次姉の顔を見ているとふとそう思えた。 ちー姉ちゃんはクソジジイの再婚相手の連れ子だった。 その次姉がひねくれもせず、俺の姉として、キー姉の妹として、今日まで心を尽くしてくれたことを思うと。 「あなたが本当は誰の子供か、それを知っているのは亡くなったあなたのお母さんだけだわ。 　でも私達はずっとあなたをお父さんの子供だと信じてた、だって二人ともやることがそっくりなんだもの。」 二人の姉はケラケラと笑った。 俺のガキの頃のことを二人で懐かしんで笑ってるんだ。 そっくりと言われてちょっとムカつく。 言われたのが、次姉じゃなくて長姉だったら、噛み付いてた。 顔がそっくりと言われないのがちょっと救いだった。 「でも、親父は男の子が欲しかったんだろ？店のために。」 「これだよ、あんた肝心なことは何にも覚えてないんだねえ。」 「本当に覚えてないの？あなた自分でお店を手伝わせてくれって言ったのよ。」 俺が？自分から店をやりたいって？ 全然全く覚えがねえ。 ハトが豆鉄砲食らった俺に次姉が語り始めた。 「あなたのお母さん、以前お客としてお店にいらしたことがあるのよ。 　一度あなたに父親を見せてやりたかったらしくて。」 「そっからが大騒ぎだったんだけどねえ・・・」 「え？」 「あなたはお父さんのお料理がすっかり気に入っちゃってね。 　勝手に厨房に入り込んできて、キッチンで大暴れしたの。俺にも料理教えてくれーって」 「もう、大変さ、包丁持ち出して、料理させてくれるまでここ動かないぞって振り回して。」 確か４つくらいだったよねと、二人の姉が確認し合う。 俺には全然覚えがねーけど、その行為はガキの頃の俺にすごくマッチしている気がして、 否定もできなかった。 そんなこともあったかもしれない。 「あの人、サンジに料理の才能があるなら、将来的にお父さんに預けてもいいって言ったわ。」 母は俺の将来像を添い遂げることのなかった男の中に見たのだろうか。 「でもそのことがきっかけで、お父さんは３度目の奥さんと別れちゃったんだけどね。 　・・・・あたしら姉妹は良かったよね。あんまりあのお義母さん好きじゃなかったから。」 俺の知らない二人の記憶。 俺の存在が知れたことで、クソジジイは三度目の妻と別れたのか。 隠し子が将来バラティエのコックになるなんて、きっと耐えられなかったんだろう。 それを我慢できるほど血の繋がらない娘二人を愛していたわけではなかった。 「お父さんは、あなたのお母さんも私達のお母さんもみんな大切にしてたわ。」 「困ってる女の人を見るとほっとけないんだよね、誰かさんとおんなじ。」 母は俺の前で父親の話しをほとんどしなかった。 たた立派な料理人なのだ、とだけ言って聞かせた。 恨み言の一つも母の口から聞いたことは無かった。 母は報われずに死んだというのは、俺だけの勝手な思い込みだったんだろうか。 麻酔から醒める前、夢の中の夢で見た、両親の姿が思い出される。 俺を挟んで、うつむく父と微笑む母。 もしかしたら、母は不幸ではなかったんだろうか。 遠く離れて暮らしていても、母は父の愛情に包まれて、幸せだったんだろうか。 そんな形の幸せがあるのなら、俺にはまだ何が女を幸せにするのか判らねえ。 「私もね、お嫁に行った今だから判るのよ。 　血は繋がっていなくてもお父さんの娘として育って私、幸せだった。 　私ね、お父さんの愛情に包まれて、痛いほど幸せだったわ。」 冷えた病室で、次姉は満たされた笑顔を見せた。 ほんのりと周囲を全て温める笑顔だった。 何が次姉にこんな表情をさせるんだろう。 誠実な夫、コブラ義兄の傍で愛情溢れる日々を送っているからだろうか？ 次々に妻を変えながらも、等分な愛情を注いだ父に育てられたからだろうか？ 「退院したら、ゆっくりとお父さんと話すといいよ。あんたとお父さんは絶対的なコミュニケーション不足。」 キー姉の言葉を聞きながら、俺はしばらく天井を見つめていた。 視界を空にやることで、何かが見えてくるような気がして。 少し一人になりたかった。 「俺、なんか喉渇いたな・・・」 「飲み物買ってくるわ。行こ、キーちゃん。」 二人の姉は連れ立って病室を出ていった。 頭の中を色んなことがぐるぐる廻っていく。 ぐるぐる廻って、真っ白になって、無になっていく。 虚ろじゃない、それはとっても気持ちのいい無だ。 次姉はその後、僅か二年も経たないうちに、愛らしい女の子を産み落として生涯を終えた。 ティティ姉さんのことを想うとき、いつも頭に浮かぶのは、 初めて会ったときの眩しい美しさと、このときの笑顔、 そしてこの言葉だ。 『私ね、お父さんの愛情に包まれて、痛いほど幸せだったわ。』 next