「Sailing days-11」 回復して退院を待つばかりの日々は正直言ってクソ退屈。 俺の背中を縫い合わせた執刀医は、異常なほど早い治癒に呆れながら、 若くて基礎体力がしっかりしているからとの理由をつけた。 １０歳でバラティエで暮らすようになってから、爆発的に背が伸びた俺。 毎日の店の手伝いで体力もついてた。 知ってる？料理って思いっきり力仕事なんだぜ。 おまけに今年の夏は、ヨットレースに出るためにかなりの筋力トレーニングも積んできた。 それら全部が幸いしたんだろう。 死にかけた割に、身体の回復は早かった。 毎日、姉達が交代で様子を見にきてくれた。 ときにはそれぞれの夫、ヤソップやコブラ氏を伴って。 ヤソップは姉ちゃんや医者には内緒で煙草をこっそり差し入れてくれて、涙が出るほど嬉しかった。 ろくでなしだけど結構いい奴じゃねえか。 こんなに気がきく男だったなんて。 コブラ氏は、プロの使う刷数限定のレシピ集をフランスからわざわざ取り寄せて 暇で死に腐っている俺にプレゼントしてくれた。 俺、仏語なら少しは読み書きできるし、料理写真を見ているとわくわくする。 去年の夏、フランスの田舎町を無銭旅行したときのことを思い出した。 女友達も見舞いに来てくれた。 やっぱり女の子の顔を見ているとそれだけで元気が出るな。 レディたちは普段俺から下にも置かれない扱いを受けているから 逆に俺に世話を焼いてやれると思うと嬉しいらしい。 とたんに花だのプレゼントだの差し入れだので病室が埋まる。 でもクソ痛い消炎注射も、隠れて吸う煙草も、貴重なレシピ本も、麗しのレディ達も 看護婦さんの電話番号も、失恋の傷を治す薬にはならなかった。 ナミさんとゾロには会いたくない、彼らの見舞いは断ってくれと姉達に頼み込んだ。 我ながら度量のクソ小せえ男だと思っちまう。 でもどうにもならない、今はあの二人にだけは会いたくない。 見舞いに来てくれる人がいるのは正直ありがたい。 ムサ苦しいパティやカルネでも、来てくれればそれなりに刺激になる。 また誰か来ねーかな、とドアを眺めていると、いいタイミングでノックの音が聞こえた。 「こんちは、いかがですかい？」 俺の病室に入ってきたのは、見覚えはあるけれど、・・・誰だっけ？ 「あの、判んないっすよね、俺ギンっていいます。あんたを拾ったトラックの運転手で・・・」 「あっ！！あんた・・・いでッ」 いきなり起き上がろうとした俺に激痛が襲う。 姉ちゃんたちが話してくれた、俺を海から引き上げてくれたトラック運転手。 この人だったんだ。 確かに少し見覚えがある。 バイト先のシャンクスのバーで何度か見たことがあった。 多分クリークっていう運送会社の奴だ。 「あ、ありがとうございます、お陰で命拾いを・・・」 「いや、気にせんで下さい。通りかかっただけっすから。」 ギンは照れた様子で頭を掻いた。 クリークの会社は表向き運送業を装っているが、実情は暴力団だ。 その会社でこいつが何をやっているか知らねーが、 まともな仕事をしているとは思えねえ。 でもこいつは俺の命を救ってくれたわけで。 「海に入って引き上げてくれたんでしょ？俺のこと。」 「ああ、あのままだったらあんた確実に死んでたし。」 死にたいわけじゃなかった。 でもあのスピードなら死んでも仕方ないってことはよく判ってた。 多分あのときの俺は自暴自棄になって、死んだって構うもんかくらいのこと考えていたんだろう。 そんな俺をこの人は車を停めて、岩場に降り、俺の身体を海から引き上げて救急車を呼んでくれたんだ。 「俺、いくらお礼言っても足りね、・・・足りませんよね。」 「とんでもねえ、俺にとっちゃあんたの方こそ恩人さ。」 「恩人？俺が。」 全く理解できない俺にギンは目で笑って語る。 目つきも怪しいし、どう見ても堅気には見えねえこの男が、俺に何の恩があるというんだろう。 「実は俺、組から抜ける機会が欲しかったんだ。 　あんたを助けたときも、ちっとやばいブツを運んでる最中で。」 「やばいブツって・・・し、白い粉？」 「麦粉じゃねーっすよ。」 「判ってるよ！」 ギンは俺の顔を覚えていて、すぐバラティエに連絡したそうだ。 ブツを運んでいる最中に面倒なことに係わるとクリークの報復を喰らう。 俺を見捨てて、仕事をまっとうするか、俺を助けてサツに現行犯逮捕されるか。 ギンの選択は二つに一つ。 これまで主人としてのクリークに忠義を捧げてきたギン。 でも組織が拡大するにつれ、次第に大きくなる不信感。 苛まれるなけなしの良心。 ギンは反射的に俺を助けた。 バラティエに連絡し警察と救急車を呼んだ。 考える余裕なんかなかったという。 その時点でギンはクリークを裏切った。 覚悟を決め、警察の到着を待つギンに駆けつけてきたクソジジイはまとまった金を渡した。 せがれの命を救ってくれた恩人だ。 クリークに指をつめろと言われれば自分が指をつめる。（料理人のくせに何言ってやがんだ） クリークの手から高飛びしたいなら、娘婿が準備を整えている。 好きに選んでくれと。 ギンはその場でクリークと訣別することを選び、ヤソップの手筈で高飛びした。 赤髪の協力でなんとか落ち着ける場所が見つかったらしい。 でもどうしても俺の怪我が気になって、 ほとぼりも冷めないうちにこっそりと様子を見にきたんだ。 「オーナーゼフはヤクザもんの間でも一目置かれてるんです。 　クリークでさえ、バラティエには手を出すなと言ってた。」 クソジジイがその筋の連中に睨みが効くというのは、以前から知っていた。 どのみちこの街はそんな奴らが幅を利かせている地域で、何か商売をやろうものなら、 どこかの組に一言挨拶を入れなきゃならない。 若い頃、祖国を捨ててこの国に帰化し、店を開いたジジイがどんなことをやっていたのか、 それを知る者は今はいない。 姉達でさえ、知らないことだ。 結局事故った俺は、ギンに助けられ、親父に輸血をされ、姉達に世話を焼かれて、 パティの特製プリン食ってたりする。 店の人員に多大な迷惑をかけている。 ヤケになった事故の代償は大きい。 ここまで自分が他人の世話になったかと思うと、何だかいてもたってもいられない。 すぐさま退院して関わった連中に詫びて回りたいような気持ちだ。 つい、助けてもらったギンにまでぼやいちまう。 「なんか俺、あちこちに迷惑かけまくって皆に会わす顔がねーよなあ・・・」 「いいじゃないですか、あんたまだ若いんだ。いくらだって恩返しはできる。 　それによ、親から受けた恩は返さなくていいらしいぜ。」 「そんなもんかな。」 ギンは元組の者にしては、優しくて情の厚い男だった。 クリークのやり方に、ついていけなくなったのもうなづける。 「俺のことなら気にするこたぁねえ、サンジさん。 　俺はあんたの親父さんのお陰で足が洗えたし、身の安全も今の所保障された。 　充分なことをしてもらったのに、あの親父さん、 　この先、俺はバラティエでメシ食っても死ぬまで金はいらねえとさ。」 「あのジジイがそんなこと言ったのか？」 「ああ、命を救われたんだから、一生もんの恩義を感じるのは当然だってね。」 姉たちは言っていた。 クソジジイはどの女にも等分な愛情を注いでいたと。 そして男に大しては、恩義に厚い男なんだろうか？ 俺はこれまで、親父の何を見てきたんだろう。 親父の何を知っていたんだろう。 考え込む俺にギンがニヤニヤして言い放つ。 「かわいがられてんすね。」 「冗談じゃねーよ！」 感情がハネ上がると全身の傷が痛む。 俺の神経を逆撫でするのは、もう少し回復してからにしてくれ。 「俺、まだ少しやばいんで、これで失礼します。」 「ああ、ありがとう、・・・本当に。」 余り長居するとクリークの連中にかぎつけられる。 それを承知でギンは俺の見舞いに来てくれた。 ほとんど初対面なのに気が合うなんて理由で、引き止めることはできない。 ギンは頭を下げて、病室を辞した。 去り際に一言、 「サンジさん、又どっかで会おう。」 又会おう、その言葉がやけに明るく胸に響いた。 クリークの元から高飛びしたとはいえ、一歩間違えればこの男の明日は知れない。 クリークは裏切りを許さないことで有名だ。 「ああ、又、必ず。」 パタンと静かな音が病室に残った。 それからギンが手持ちのヤクを土産に、警察に自首したことを知ったのは 俺が退院してから数週間後のことだった。 ＊＊＊＊＊＊＊ 退院の日、キーナ姉ちゃんが車で迎えに来てくれた。 ５週間に及んだ入院中の荷物を車に積み込み、親しくなった看護婦さんとお別れ。 結局クソジジイはあれから一度も病院には来なかった。 命さえ、助かれば病院に用は無い、それも親父らしいといえばらしいが。 正直どんな風に顔を合わせればいいのか、皆目見当がつかなかったから、 俺としては助かったんだけど。 病院を出て車は見慣れた街並みへと入っていく。 窓から見える街路樹は、真夏の緑をすっかり落とし、紅をまとって、揺れている。 空は見上げるほどに高く青く、秋の空そのものだった。 家に着くと、キーナ姉ちゃんは車から降りずにそのまま引き返していった。 ありがとう、ヤソップにもよろしく言ってくれ。 精一杯の感謝の言葉は排気音に邪魔されて、ちゃんと聞こえただろうか。 片手に荷物を持って、自分の家の玄関を開ける。 店は丁度休憩時間で、辺りは静かだ。 もちろんあの親父が俺を出迎えるわけもなく、一人で自室への階段を上がる。 途中の廊下から縁側で背中を丸めているジジイの姿が見えた。 俺の帰宅に気づいているだろうが、こっちに顔は向けない。 俺も声一つかけずに部屋に上がった。 自分の部屋でこれといってすることもなく、かといってただ部屋にひきこもってもいられない。 荷物を置くとそのまま階段を下りて、縁側のある部屋まで戻ってきた。 何かを父に話さなければいけない気がして。 縁続きの和室にはよく磨かれた柱が立っていて、この家を支えている。 その柱にもたれかかり、回復後の体を預けた。 目の前では親父が中庭に向かい、ぱちんぱちんと爪を切っている。 サワサワと渇いた音が中庭の木々の間から漏れる。 季節に忘れ去られた風鈴がチリンチリンと秋空に似合わない音を立てた。 クソジジイが丹精込めた純日本風の庭は、いつだって生命力に溢れた植物でいっぱいだ。 中にはジジイと人生を共にした女達が植えていった花枝や、 暇を願うコックが置き土産に残していったハーブ類もある。 キーナ姉ちゃんや、ティティ姉ちゃんが嫁に行くときに植えた果樹は、今はまだ若木だ。 この庭を眺めながらクソジジイは生きてきた。 いつだってこんな風に縁側に腰を下ろして背中を丸め、話し相手も無く。 片足を失い、愛する者を失いその背中は生きてきたんだ。 爪を切る父親の背中をじっと見つめた。 パチン、パチン 親父の爪が弾ける音 サワサワサワ・・・ 秋風に木の葉が揺れる音 チリン、チリン 季節外れの風鈴が申し訳なさそうに鳴る音 パチン、パチン サワサワサワ・・・ チリン、チリン 親父と俺の間に初めて流れる、穏やかで優しい時間。 パチン、パチン サワサワサワ・・・ チリン、チリン 俺はこれまで親父のことを何も判っていなかった気がする。 でも今その背中を見ていると、俺には親父の全てが判ったような気がした。 来る日も来る日もこの庭を見つめ、料理を作り続けた。 幾人もの人が次々に自分の傍を去っても、ただ黙々と作り続けて。 恐らく気も遠くなるような、泣き出したくなるような年月を来る日も来る日も。 作って作って作って、作って作って作って、 作り続けて パチン、パチン サワサワサワ・・・ チリン、チリン 片足でも爪は伸びるんだな。 これまでそんな事考えもしなかった。 俺は親父を見ようともしていなかった。 キーナ姉は退院したら、親父ととことん話せと言っていた。 何を話せばいいんだろう。 輸血してくれてありがとう？ ・・・そんなの親子なら当たり前だ。 ギンの身の振り方を決めてくれた事？ ・・・そいつは成り行きだ。 その場でジジイが自分の思う通りにしただけのことだ。 心配かけて悪かった？ ・・・今更だ。 俺とクソジジイの間にはどんな言葉も陳腐なものでしかなかった。 何も話さなくてもいいんだ、多分。 俺と親父の間には姉達にさえ、通じない父子だけの言葉がある。 中庭を愛でながら爪切ってるジジイの邪魔をするのは、余りにも無粋だ。 「・・・てめえが入院してる間にな、季節が変わっただろ。」 パチン、パチン 爪を切りながらクソジジイがぽつんと呟いた。 サワサワサワ・・・ 「ああ・・・」 葉ずれの音に紛れて、俺が間の抜けた返事を返す。 チリン、チリン 「店のメニューもな、変わった。」 「きのこの壷煮シチュウ、もうやってんの？」 「ああ、だが人手が足りんでな、１日３０個限定だ。」 「今日から限定無しだぜ。」 「そうか。ま、無理はすんな。」 パチン、パチン サワサワサワ・・・ チリン、チリン 「風鈴外すぜ。」 縁側に立ち、いつの間にかジジイよりも伸びた身長で、 軒下に吊るされた風鈴に手を伸ばす。 「おお、頼む。」 チリンチリ、・・・コロ 外された風鈴は俺の手の中で、小さく音を閉じ込めた。 「さてと、休みは終いだ。」 ジジイは切った爪を払い、ゆっくりと立ち上がった。 縁石に置いたサンダルを引っ掛け、中庭へと降り立つ。 クソジジイは歩き始めた。 中庭にしつられてある、一本の道。 人がやっと一人か二人通ることのできる白石を敷き詰めた道。 海上レストランバラティエへと続く道。 俺も後を追って中庭に降り立った。 目の前には一本に伸びた白い道。 この男をいつか追い越すために、今踏み出す道。 何のために？意味なんて必要無い。 意味を考える暇があるなら、先へ進む。 愛しい女の言葉が今になって胸に蘇る。 『サンジくんからお料理をとったら何が残るの？』 きっと何も残らない。 「行くぞ。」 「ああ。」 目の前に続く白い道。 大きな背中が壁となって立ちふさがっている険しい道。 それが俺の踏み出した真の料理人への道だった。 next