「Sailing days-12」



俺が事故って入院している間に、学校の２学期はとっくに始まっていた。
退院してから俺は一日も学校に通ってねえ。
学校は俺にとって必要なことは何一つ残っていないと判断したからだ。
校舎にでかでかと下がっている、「ロロノア・ゾロ君、国体出場おめでとう！」と
書かれた垂れ幕を見るのが嫌だったってのもある。
ゾロは８月の終わりに一度合宿から帰ったと思ったら、
またすぐ国体開催地である合宿所に戻っていった。
ろくに会ってもいねーし、会う理由もねえ。
ナミさんは俺の見舞いに来たいと言ってたけど、俺は全部突っぱねていた。
事故ったときに携帯をパーにしたので、連絡も取っていない。

俺は少しずつ、高校中退の意思を固めていた。

早朝起き出して、ジジイと一緒に市場へ行く。
コック達が来る前に朝の仕込みをほとんど終えて、ランチタイムの準備、
タイムテーブルに従って、一日中店で料理を作っている。
もちろん、手が足りないときにはフロアも仕切るし、
店が引けてからはその日の集計もやるようになった。
コック達が帰宅してからも、ジジイと二人向き合って帳簿つけ。
深夜のバイト、シャンクスのカウンターバーも、退院後に辞めていた。
バイトを世話してくれたヤソップ義兄には悪いと思ったけど、
結局そのバイトの帰り道に事故っちまったんだから、申し訳無く思えて。
一日中店で過ごす毎日は、俺とコック達の間にこれまでと違った関係をもたらすようになっていた。
コック達は俺のことを半端もんの手伝いじゃなく、一応コックの仲間として扱うようになっていた。
俺も今になって初めてコックの仕事が判ったような気がする。
人に料理を作って生計を立てる、本当のコックの苦労や楽しさが。
そう思うと、これまでの生意気な態度をつい反省してみたりすんだよな。



休憩時間が終わりに近づくと、店の電話がけたたましく辺りに鳴り響いた。
近くにいたコックが受話器を取る。

「へい、こちらバラティエ。」

コックは俺に電話だと、合図をし、受話器を押し付けていった。
俺に電話？
店にかかってくる電話だから、先週発注したヌーボーに手違いがあったのかと
少し、気にかかる。

「もしもし？」
「もしもし、私、サンジくん？」
「・・・ナミさん。」

彼女が店に電話をかけてくるなんて、思ってもみなかった。
事故った日、仕入れの帰りに彼女を送っていってから、それ以来会っていなかった。
やっと彼女が過去の女になりつつあったのに。
一言声を聞くだけで、愛しさと悔しさがこみ上げてきて、胸がぐっと苦しくなる。
思わず、コックコートのボタンを外して、呼吸を整えた。

「サンジくん、あのね、・・・怪我大丈夫？」

おずおずと遠慮がちに聞いてくる。

「ああ、もう大丈夫だよ、びっくりさせて悪かったね。」
「ううん、元気になったならそれでいいの。良かったわ。」

俺の様子を聞くだけで電話をしてきたようには思えない、力弱くか細い声だった。

「ナミさん、何かあったの？元気無いぜ。」

今更俺が彼女の事を心配しても、どうにもならないことは判ってる。
でも性分だ。
レディが何か困ってる様子を見過ごせるような俺じゃない。

「あのね、私どうしてもサンジくんに相談したいことがあって・・・」
「俺で良かったら、相談に乗るけど。」
「ありがとう」
「・・・ナミさん？」

途切れ途切れに聴こえてくるナミさんの言葉。

「サンジくん、忙しいのに、ごめんね。
　でも私、他に相談できる人がいなくて・・・
　あのね、・・・・サンジくん、産婦人科の病院、いいとこ知らない？」
「・・・ナミさん？！！」
「知らなかったら、いいの。自分でも色々探してるから、でも私やっぱり不安で・・・」
「い、いきなり言われても、俺も心当たりが・・・」

どういうことだ？
聡明なナミさんが産婦人科の病院を探してる？
それってもしかして、つまり・・・
薄情なことに今は店の電話で、休憩時間はまもなく終わり。
俺はナミさんに、とにかく後で会おうと約束をとりつけ、電話を切った。


＊＊＊＊＊＊＊


なんとか彼女に会うことができたのは、店が引ける１１時を過ぎ、
そろそろ日付が変わろうかという時刻。
店の車で（それでもまだ無免）ナミさんの家の近くまで来ると、彼女を呼び出した。
どこか静かな所で話そうか？と誘うと、ナミさんは車の中で話したいと言った。
外は真っ暗な闇が俺たちを飲み込む秋の夜長。
俺は国道沿いのパーキングに車を停めた。
夏場は海水浴の車がびっしりと詰っている駐車場も、今は空っぽ。

「一体どうしたの？ナミさん産婦人科なんてさ。」

辺りは静けさに包まれて、時折トラックが道を通り過ぎる。
俺の車の助手席でナミさんはうつむいたままだ。

「ごめんね、いきなり変なこと聞いちゃって。」
「ナミさん、まさか？」
「うん、私、妊娠したみたいなの。」
「！！」

俺は充分覚悟を決めた上で聞いたつもりだった。
でもこればっかりは・・・。
だってナミさんはまだ俺と同じ１７歳で、高校二年で、
再来年には商船大入学の期待のかかる夢見る女の子で。

「た、確かなのか？」

こういう時どうしてもうろたえてしまうのは男の性なんだろうか。
焦る俺に比べ、ナミさんは暗い顔をしながらも落ち着いている。

「妊娠検査薬って知ってる？あれ試してみたら・・・当たりでさ。」
「できてたって？」
「うん、その検査は９９％信頼できるから、まず間違い無いと思う。」

確定診断は産婦人科を受診しなければいけないとかなんとか、上の姉貴が言ってた気がする。
でも、ほぼ間違いない。

「そうか、ナミさん妊娠しちゃったのか。」
「・・・ウっ！・・・」

つい俺が言葉にすると、ナミさんはスカートの裾を握りしめて、大粒の涙を零した。
ナミさんが検査薬を試してみたのは先週で、それから数日彼女がどんな思いだったか。
察するに余りある。

「ごめんね、私サンジくんにこんなこと言えた義理じゃないのに、
　ノジコにも相談できなくて、・・・私、他に友達なんて一人もいないから。」

ナミさんは益々しゃくりあげながら、短いスカートを握りしめる。
以前と変わらないミニスカートなのに、今そのスカートの中には赤ん坊がいるのか。
あいつの、俺たちの親友の、ゾロの子供が？

「あいつの、ゾロの子供なんだろ？」
「・・・うん、多分。」

じゃあ、俺の前にあいつに相談すべきだろとつい言いかけた。

「でもお願い！サンジくん、ゾロにはあいつには言わないで！」
「どうして？そんなこと言ってる場合じゃないだろ。」
「ゾロは今、国体出場を控えてんのよ。
　国体でいい成績が出せれば、H大の推薦が取れるって、ゾロのお父さんも言ってたもの。
　こんなことが判ったら、出場停止になっちゃうよ。」
「だからって。・・・君はどうしたいんだ？赤ん坊。」
「産むわ。」

間髪を入れずに彼女は答えた。
その言葉に少しの迷いも感じない。
でもスカートを握り締めた両手はブルブルと震えていた。
１７歳の女子高生のお腹に子供が宿る、
それはテレビや映画で美しく取り沙汰されるような、簡単な出来事じゃない。

「産むって、簡単に言うなよ。」
「簡単になんて言ってない！私は産むわ、たった一人で産んで育ててみせる。」
「何言ってんだよ。」

俺はハンドルにもたれて倒れこんだ。
一体何を言ってんだ。
もし子供が出来ていたとしても、１７歳の女の子が、一人で産んで育てられるわけないだろう。
相手には何の責任も持たせないで、自分一人で全てを抱え込もうなんて。
ゾロには何も知らせないで、国体出場を果たしてほしいだって？
男にとってそんな都合のいいことがまかり通るなら、世間の無責任男は万々歳だぜ。

そんなにあいつが好きなのか？！

「サンジくん、ごめんね。勝手なこと言って。」

ハッと我に返った。
少なくとも今ナミさんがかりそめにも頼りにしようとしているのは俺なんだ。
俺はジャケットのポケットから、小さな紙切れを取り出してナミさんの手に握らせた。
ナミさんはそっと紙切れを開く。
紙切れには彼女が初めて見る、産婦人科医院の住所と電話番号がメモってあった。

「俺の上の姉貴が今、妊娠中で、そこの病院に通ってんだ。
　信頼できるいい医者らしいから。」

ナミさんは紙に書かれた病院の名前を何度も何度も読み返した。

「ありがとう、サンジくん。」
「とにかく、行って診てもらえよ。何なら一緒に行ってやるから。」
「ううん、そこまで甘えられない。一人で行けるから。」

ナミさんははっきりとした口調で言った。
そうして彼女は”一人で”という行為に、自分を慣らそうとしてるんだろうか？

「俺より姉貴の方が、役に立てるかもしれねえな。
　キーナ姉ちゃん、今度は来月の１日に検診に行くって言ってたから、
　日時合わせて行ってみれば？色々相談に乗ってくれると思うぜ。」
「そうだね、あと２，３日もすれば来月だし、キーナさん、いい人だもんね。」
「ちょっと個性的な鼻してるけど、気にしなけりゃ、結構あてになる奴だからさ。」

ナミさんは紙切れを大切にたたみ、バッグにしまいこんだ。
今日はこれ以上、彼女にかける言葉が見つからない。
ナミさんはありったけの想いをこめて、あのゾロを愛してる。
奴には知らせずに一人で子供を産もうとしている。

俺は彼女にとって、誰よりも信頼できる友達。

今更ながらクソむかつく事実だ。



それから２日経って、俺はキー姉の電話攻撃にさらされる羽目になった。

「ちょっと、どういう事よ！ナミちゃんあんたより一学年下でしょ。
　もう３ヶ月に入ってんだよ、相手はあんたじゃないのかい？」
「俺じゃねーよ、俺の子だったらキー姉に頼まねえで、俺が一緒に病院に行ってるって。」
「本当だろうね、ほんとにほんとにほんとだろうね！」
「しつけーよ！俺じゃねーったら俺じゃねー！」
「あんたなら、やりかねないから言ってんだよ。」
「俺はちゃんとしてるっての！！」

ナミさんの妊娠はやっぱり間違いじゃなかった。
そのお腹には今小さな命が宿ってる。
自分を取り巻く状況や、母親や、周囲の思惑など何一つお構い無しに。
今このときもすくすくと育っていやがる。

「そういうキー姉はどうだったんだよ、妊婦検診とかいう奴。」
「あたしはもちろん順調さ、旦那の愛があるからね。」
「・・・バカじゃねーの。」
「なんだって！もっかい言ってみな。」

ヤソップとキーナ姉ちゃんの間にも子供が生まれる。
海運業、赤髪組に勤めるヤソップは裏事情にも詳しく、器用でよく動く男だ。
お陰でこの俺も何度も助けられてるんだけど。
俺はどうもヤソップを好きになれない。
信頼しきれない。
見た感じ、地に足がついてないからだ。
そのヤソップと俺の姉ちゃんとの間に子供ができた。

なんだっていきなりこんなことになっちまったんだ。
俺の周囲で赤ん坊がゴロゴロと。

「とにかく俺、もう一度ナミさんに会ってみる。
　余計なことくっちゃべったら、たとえ姉ちゃんでもぶっ飛ばすからな。」
「ふんだ、あたしがそんな真似するわけないだろ、失礼な。」

姉貴に口止めをした所でナミさんのお腹がせり出してくれば、人は色んなことを言い出すだろう。
学校に知れるのも時間の問題だ。
俺は何としても彼女を救いたかった。
彼女を守りたかった。



＊＊＊＊＊＊＊



「サンジくん、この間はありがとう。お姉さん、本当にいい人だね。」
「まあ、信頼だけはできる奴だから。」

店の定休日、放課後にナミさんを呼び出した。
ナミさんは腹の中に赤ん坊を隠したまま、毎日学校に通っている。
彼女は人目につかない所で会いたいというので、
自宅に呼んでバラティエの海上テラスで話しをした。
誰もいないテラスには潮風が吹き抜け、心地良い秋の陽射しが当たる。
このテラスで彼女にキスしたのは、いつの事だっけ？
何だか随分昔のような気がするぜ。

「悪阻の事とか、色々教えてくれて、お話してると落ち着くわ。」

キーナ姉は話し上手だ。
人を喜ばせる話しや、元気づける話し方をする。

「そうか、あんな姉貴でも役に立ててよかったよ。」
「あんな姉貴なんて、いいお姉さんじゃない。
　・・・又来月も一緒に検診受けることにしたの」

ナミさんはクスクス笑いながら、オレンジジュースを啜る。
その仕草はあの頃と全く変わりが無いのに、彼女はもう以前とは違う女性だ。
身体の中に異質な物を飲み込んでもなお、変わらない彼女の表情を俺は不思議な気持ちで見つめた。

「ナミさん、これ、受け取ってくれ。」

テーブルの上に茶色の封筒に置き、ナミさんに差し出した。
ナミさんは封筒を少し覗き見る。

「何？、やだこれ、お金じゃない。もらえないよ、こんな大金。」
「大して多くはねーけど、俺、事故の保険金入ったから使ってよ。」

ナミさんは封筒を手にしたまま、ふるふると首を振った。

「冗談、ちょっと早い出産祝いにしては多すぎるわ。」

大きな瞳に戸惑いが見え隠れする。
俺はゆっくりと顔を上げ彼女の瞳を射抜くように見つめた。

「その金で子供堕すんだ、ナミさん。」
「・・・な！」
「それが一番いい、判るだろ。」
「わ、私産むって言ったじゃない！」
「無理だよ。」
「無理じゃない！絶対産むんだから！」

ナミさんは封筒をテーブルに叩き付けた。
俺は溜め息を吐きながら右手で自分の頭を支える。
煙草吸いてーけどそれは我慢。

「普通に考えろよ、ナミさん。育てられるわけないだろ。」

中絶。
それは俺がこの所ずっと考え続け、それ以外に無いと判断して出した答えだった。

「そんなこと勝手に決め付けないで。」
「バカ言うなよ！ヨットと違って子育ては針路変更きかないんだぜ。」
「だから私はやってみせるって言ってるじゃない。」
「君は判ってねえよ、一人で子供を育てるってことがどういうことか。」
「判ってなくても私は産むって決めたの！」

ナミさんは一歩も譲らない。
けど君は知らないんだ。
俺の母親が不倫の子供を産んで、どれほどの苦労を抱えながら、俺を育てたか。

「俺はね、ナミさん。私生児がどんな風に育つか嫌ってほど知ってんだ。
　・・・１７年かかったんだぜ、父親の存在を認めるのに。」
「それはあんたが人一倍ひねくれもんだからでしょ。」

ったく！このレディは。
自分の置かれてる状況が本当に判ってんのかよ。
前に会ったとき、ナミさんは妊娠の事実を前に涙を零していたってのに。
検診受けたとたんに強気になりやがって。
一人で産んで育てるなんて、そんなの無理に決まってる。

「だったらナミさん、夢はどうすんだよ？商船大の教授のことを忘れたのか？
　ナミさんの事をあれだけ買ってくれたんだぜ。」

商船大学松本教授は、ヨットレースでのナミさんの実力を認め、
特待生として迎えることを約束してくれた。
外国航路の航海士になる、その夢はあと２年で叶うはずだったじゃないか。

ナミさんはふわりと席を立ち、テラスの縁を握って、海を見つめる。
俺はその後を追いかけた。

「・・・松本教授にはお手紙を出すわ。一身上の都合により進学を断念致しますって。
　高校も今期で辞めるつもり。」
「この街は息が詰る、東京に出たいって言ってたろ。 その為に君は随分と努力をしてきたじゃないか。」
「・・・ええ。」
「ナミさん。」

潮風に短いオレンジの髪が流れる。
彼女は下腹に優しく手を当てた。

「きっといくら説明しても判ってもらえないと思う、私がこの子を産みたいと思う気持ち。」

どうして？
確かに俺には判らない。
なぜ、そんなにまでして子供を産みたがるんだ。
望んで出来た子でもねえくせに。
ゾロの子供だからか？

俺はこの期に及んで自分のガキみたいな妬心に吐き気がした。

テラスの縁に肘を預けて彼女の横顔を覗き込んだ。
薄く閉じられたヘイゼルの瞳。

「私だって色々考えたわ。でも、だめ、この子を殺すことなんかできない。」
「だったらあいつに責任取らせろよ。」
「夢を捨てるのは私一人だけでいい。ゾロの将来を壊したくない。」
「君だって捨てる必要なんかねえんだ！」

ナミさんの両肩を掴んで振り向かせた、少し乱暴に。
俺の事を正面から受け止めてほしくて、俺の言うことを聞いてほしくて。

「君は男にも負けねー航海士になれるんだ。
　なあ、考え直せよ。君はこの海で無敵のスキッパーだったじゃねーか。」
「・・・うん、楽しかったね、セーリング。」

毎日この海で、ただひたすら走り続けた。
あの時の君がどれほど輝いていたか。

「でもサンジくんが中絶を勧めるのは、
　私の夢の為じゃなくて、・・・まだ私の事が好きだからでしょ。」
「そうだよ、悪いかよ。」

好きだ。
今この時でさえ、俺はナミさんを諦められねえ。
腹に親友の子を宿す彼女をそれでも欲しいと思う。
男ってのはどこまで身勝手で強欲な生き物なんだろう。
けどそれのどこがいけねえんだ。
ゾロだって、ただこの女が欲しい、自分の物にしたい、
そんな独占欲だけで、ナミさんを抱いたんだから。
男の十代の愛情なんて、所詮は独占欲だろ。
大きく包み込んでやれる度量なんて、持ち合わせちゃいないんだ。


「ねえ、サンジくん、夢を追うってすごく寂しいことのような気がしない？
　私、最近そう思うようになったの。」
「寂しい？」
「うん、このまま夢を追って東京に行っても、私は一人ぼっちも同じ。
　望む物を一人で手に入れて何が楽しいの？
　今の私は一人じゃない、お腹の中にもう一つの命がいるの。
　ほんとはやりたい事も欲しい物もたくさんあるけど、
　この子を殺して、東京に行くくらいなら、・・・・私、もう！！！何もいらない！！！！」

東京へ行って商船大に入って、海外航路の航海士になる。
日本に帰るのは年に１度あるか無いか。
子を身ごもった彼女は初めて夢の孤独さを思い知った。

「俺、もうすぐ中退するつもりだし、東京に行くなら俺が一緒に行ってやるよ。
　中絶して君の卒業を待って、俺とやり直そう！」

「サンジくん。」

「俺は君を一人になんかしねーよ。」
「サンジくんの夢はお父さんを超えて、このお店をもっと立派にすることでしょ。
　・・・私達の夢は両立しないわ。」

そんな風に言わないでくれ。
俺は君の為なら何でもする。
夢だって捨ててもいい。

「俺なら絶対君の望む夢を叶えさせてやれるよ。自信があるんだ。」
「ほら、だからあんた達じゃだめなのよ。」
「え？」
「私はゾロの夢もサンジくんの夢も壊したくない。」

軽く俺の腕をふりほどいて、又海に視線を戻す。
その海の向こうに君の望む物があったはずじゃないか。

「ここでサンジくんにすがったらどれだけ楽か、どれほど幸せになれるか、私判ってんのよ。」
「ナミさん、だったら・・・」
「でも私は子供と二人、これまでと違う人生を歩いてくって決めたの。」

子供を守ろうとする母の力強さに太刀打ちできるものは何もない。
それは俺やゾロみたいな若造にはどうにも理解できない大きな力だ。

「・・・判ったよ。」
「ごめん、・・・でもありがとう、サンジくん。」

全てを吐き出したナミさんは少し潤んだ目を拭いながら、帰り支度を始めた。
もう、話すことは何も無いとでも言うように。

「そうまで決心してるなら、もう俺の出る幕はねーな。
　けどこの金だけはもらってくれる？
　俺、これ以上君にしてあげられる事、何にも残ってねーから。」
「うん、タクシー代に使わせてもらうわ。」

送らなくていいと彼女は言う。
本当に俺がしてやれる事はもう何一つ残ってない。
今この瞬間が俺たちの別れ道なんだ。

「さよなら、ナミさん。」
「さよなら、サンジくん。」

俺に背を向けた首筋が、泣きたくなるくらい白かった。
でも俺はその背に手を伸ばすこともできず、金縛りにあったように身動きできない。
彼女の意思に触れられる者は誰もいない。
料理の道を進むと決めた俺。
子供を産んで二人で生きていくと決めたナミさん。
俺は一人。
夢を追うって確かに寂しい事なのかもしれない。

「さよなら、ナミさん」

一人取り残されたテラスで、もう一度届かない言葉を吐き出す。
拭い去れないこの愛しさをどこへやればいいんだろう。

テーブルに残ったグラスを力いっぱい海に放り投げた。
彼女が憧れ続けた水平線に向かって。

それはもちろん届くはずもなく、小さな光を放ちながら静かに波間を漂っていた。


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