| 「Sailing days-6 〜another side〜」
サンジくんのお家を出てから、霧は雨に変わった。 やっぱり気象庁の発表よりも、私の予測の方が正しかったわ。 夕方を過ぎてサンジくんは私を送っていくと言ったけど、私は一人で歩きたくて、断った。 案の定、しっとりとした雨が、私を濡らす。 今頃彼は慌てているかもしれない。 せめて傘を持たせれば良かったって。 でもね、誰だって優しく霧に包まれていたい時もあれば、激しい雨に打たれたいと思う時もあるのよ。 小雨の降る中、私は一人でとぼとぼと歩いていた。 うちへ帰ろうか？ でもそんな気にはなれない。 霧の立ち込める中、そっとサンジくんにキスされた。 それは泣きたいくらい優しくて、逆に悲しくなった。 『君の全てを包み込んであげるよ』 彼のそんな気持ちがまっすぐに伝わってきた。 先週別れたという彼女は、そんな優しい幸福をたくさん味わったに違いない。 でも私は？ サンジくんを好き？ 好きか嫌いか問われれば、大好きと答えるだろう。 でも彼の素直な優しさはきっと私に似合わない。 彼はいつだって、私のことを女神様だとか、綺麗だと言うけれど、 私はそんな言葉を貰えるような女の子じゃない。 彼から捧げられる美辞麗句は私にはふさわしくないの。 先週しばらく続いた人から、こんなことを言われた。 「ヨットレース？困るな。 君がそういう表立ったことをするなら、これまで通りの援助はしてやれないな。 万が一にも世間にばれるようなことは無いと思うが、私にも立場があるんでね。」 ヨットを取るか、援助を取るかと言われ、迷わずヨットを取った私。 あの男は私がそんなものに興味を抱いているとは夢にも思っていなかった。 お金が欲しくて、何でも言うことを聞く。 そういう女子高生だと思っていたんだわ。 残念ながら私の目的はお金だけじゃない。 お金は夢を叶える手段に過ぎない。 月に何度か会って寝るだけで、１０万くらいのお金をポンとくれた。 バカな男だと思いながら、都合がいいからしばらく会っていた。 適当に男をひっかけた所で、一回に２、３万くらいにしかならない。 相手が特定してる方が楽でいいのに。 また振り出しに逆戻りだわ。 入学金、学費、下宿の家賃や契約の諸費用、生活費・・・ 東京に行くにはあと何人の男と寝ればいいんだろう？ 小雨の中一人商店街に向かって歩き始めた。 今日は欲しい本が入荷される日。 さして大きくもない書店に入って、新刊の棚を眺め回した。 あった、海科読本改訂版。 海洋科の学生達には必携の本だわ。 勿論お金は無いけど、今の私にはどうしても必要な本。 この街は海で暮らしを立てる人が多いから、海に関する専門書も割りと豊富に置いてある。 それにしてもどうして専門書だの、学術書ってのこうも高いのよ。 冗談じゃないわ。 だから私がこんな手段でしかこの本を手に入れられないのは仕方の無いことなのよ。 これ以上、ノジコに水商売で稼がせるわけにはいかないんだもん。 肩から提げていたトートバッグのファスナーをそっと開けた。 そのまま屈んで、棚に目を近づけ、本を良く見る振りをする。 立ち上がると同時に、Ａ５版の本をすっとバッグに落とし込んだ。 成功！ と思ったのもつかの間、後ろから手首を凄い力でぐっと掴まれた。 何？ 驚いたけど、声は立てなかった。大げさに騒いじゃいけない。 落ち着くのよ この私がヘマやるわけない。 まずは相手を確かめなくちゃ。 恐々と後ろを振り返った。 私の手首を血が止まりそうなほど掴んだ人間は、 「ゾロ・・・」 いつもは寝てばかりいる男が鋭い眼光で私を見下ろしていた。 「何やってんだ、お前。」 「何ってあんたに関係ないでしょ。」 小声で言いながらゾロを恨みがましく睨み上げる。 なんであんたがこんなとこにいんのよ。 ゾロは私の腕を掴んだまま、バッグに片手を突っ込み、本を取り出した。 何てことすんのよ、邪魔しないでよ。 周囲の客の視線に気づき、私はその言葉を飲み込むしかなかった。 ゾロは私（！）の本を書棚に戻すと、腕を掴んだまま、大股で歩いていく。 このままじゃ、収穫無しでお店を出ちゃう。 なかばゾロにずるずると引きづられるようにして、店の外に出た。 掴まれた腕が痛い。 本屋を出てもゾロはまだ歩き続ける。 その間、私はゾロに散々文句をまき散らしたけど、奴は声一つ発さなかった。 繁華街から少しそれた公園まで来ると、ゾロはやっと私の腕を乱暴に放した。 「いったー・・・」 私はやっと開放された腕を摩って、その痛みに呻いた。 まったく！馬鹿力なんだから・・・ 降ってくる小雨のせいで、公園には誰一人姿は無い。 ペンキのはげた滑り台も錆びたブランコも雨に濡れて、なんだか寂しそう。 「何てことすんのよ！私の邪魔しないで！」 さっき飲み込んだ言葉をようやく吐き出した。 「おめえこそ、何してやがんだ。コソコソ下らねーマネしてんじゃねーぞ。」 「くだらないマネですって、あんたに何がわかんのよ！」 激昂する私に反してゾロは静かに、ぞっとするほどの冷たさで軽く言い放つ。 それが余計、頭にきた。 「私が何しようと私の勝手でしょ！偉そうに説教でもしようっての？」 「説教なんざする気はねーがな、・・・お前少しいい気になってんじゃねーのか。 専門書なんか万引きしてたら、今に見つかってサツに補導だぞ。」 「私が補導されたって、あんたには関係ないでしょ。」 ゾロは大きな道場の一人息子。 お金の苦労なんかしたことないに違いない。 そのことが私の怒りに拍車をかけた。 そんな奴に私の苦労が、私の気持ちが判ってたまるもんですか。 好きで盗んでんじゃないのよ！ 「残念ながら関係あるぜ、お前が補導なんぞされてみろ。市長主催のレースなんか出られやしねえ。」 「・・・・！！・・」 「俺たちをここまでヨットに巻き込んだのはお前だ。だったら下らねーことで目標を壊すな。」 私が補導されたら、レースには出られない。 それは当然よね。 船を貸してくれたゲンさんも出資してくれたゼフさんもドクターも、きっと私を許さないわ・・・ でもゾロに素直に従うほど、私はかわいい女の子じゃなかった。 「心配して下さってどうも。でもね捕まらなきゃいいのよ。 私にはあの本がどうしても必要なの。お金が貯まるまで待ってらんないわ。」 「俺にゃ、捕まっただろうが。」 これまで私の現場を押さえた人間なんかいなかった。 ん？そういえば一人だけいたわ。 ディンギーを貸してくれたゲンさん。 まだ私が10才のとき本を万引きして、交番の巡査だったゲンさんにみつかった。 ゲンさんは今と同じように私の腕を掴んで母の元へ連れていった。 痛む腕を摩りながら一瞬追憶が頭をよぎる。 優しかったお母さん。 女手一つで私達姉妹を育ててくれた。 でも母は借金苦からアーロンというゴロツキ一味に大切な土地の3分の２を奪い取られた。 必死でみかん畑を守ろうと抵抗した母は、下っ端の殴る蹴るの暴行に合い最期は命を落としたのだ。 表向きは、強制執行中、重機の誤作動による事故。 業務上過失致死ですって？ 笑わせんじゃないわよ！ そんなことをゾロ、あんたは知らないくせに！ それから私達姉妹がどんな風に暮らしてきたか、目の前にいるあんたは知らないくせに！ 「私にはね、夢があんのよ！どんなことをしたって夢を叶えるわ。 誰にも邪魔なんかさせないんだから！」 私は母の死によって、目的の為には手段なんか選んでいられないということ。 生まれてきたからには何が何でも望みを果たすこと。 その二つを学んだのだ。 「お前は俺たちの艇長だろ！だったらきちんと責任果たせ！」 頭の上に雷が炸裂した。 身体が固まる、棒立ちになる。 ゾロの言葉に身体がしびれて上手に立っていられない。 私はスキッパー、「みかんと風車号」の艇長、ゾロとサンジくんは私のクルー。 彼らは私に全てを預けてくれている。 私は身体から力を失った。雨が少し強くなる。 小雨に濡れて私もゾロはびしょ濡れ。 どこか捨て鉢な気分が私を襲った。 「責任ね、じゃあその艇長のほんとの素顔を教えてあげる。 私はね、あんた達に偉そうに号令かけてるけど、そこらへんの普通の女の子とは違うのよ。 私はね・・・」 一瞬呼吸を飲み込んだ。 でも堰を切って溢れ出した感情はもう留めようが無い。 ゾロに本当の私をぶつけてやりたかった。 私は女神様なんかじゃない。 「この身体でお金稼いでんの。たくさんの男が私を買っていくわ。 そのお金で私は望みを果たすの。思い通りにならないことなんか何一つ無いわ。」 私はゾロの目の前に自分の胸を、腰を誇張するように突き出した。 「・・・馬鹿な女だ、どうしようもねえ奴だな。」 ゾロはじっと私を見つめた。私の身体を上から下まで全て視界に納める。 眉間に皺を寄せた不機嫌な表情は、いつものそれと大した変わりはない。 雨は激しく降り始めた。 公園外の脇道を行く人々が、我先にと雨避けに走る。 辺りにはおよそ人の気配は一切無くなった。 私はいつものように男を誘う目をして、ついとゾロの傍に身を寄せた。 指先でゾロの顎に滴る水滴を絡め取る。 「ねえ、あんたなら幾らで私を買う？」 バシーン！ ゾロの平手が私の頬に飛んだ。 世界が全部砕け散った。 「何すんのよ！」 「お前が殴ってくれって顔をしてた。」 ぶたれた勢いで身体がよろめく。 腫れ上がった頬を自分の手で抑えた。 「痛い、あんた、思いっきり・・・」 呟く小さな声にゾロは答えない。 「野蛮人・・・サンジくんなら死んだってこんな真似しないわよ。」 「そうだな、あいつなら女を殴った瞬間に自殺してる。 だからあいつはいつまでも中途半端なんだ。」 誰に対しても、何に対しても、いつだって少しだけ距離を置くサンジくん。 誰も傷つけないように。心を配って。 私はそれを彼の優しさだと思っていた。 でも・・・中途半端？ それはほんの少し臆病だってことなの？ 私は女神様なんかじゃない。きれいな女じゃない。 そのことを命を預けてくれている二人に黙っているのがつらくて、告白しようとした。 きっとサンジくんは私の噂を知っている。 あれほど女の子には抜け目の無い人だもの。 知っていて私を傷つけまいと、知らない振りをして私を女神様と呼び続けたんだわ。 激しい雨が私とゾロに叩きつけられる。 これ以上ここにいたら、よっぽどの変人に見られちゃうわ。 「お前が下らねー真似を止めねーんなら、俺はお前の船にこれ以上乗るつもりはねえ。覚えとけ。」 「何よ、人の弱みにつけこもうっての？この卑怯もん！！」 「なんとでも言え。」 簡単に船を下りるなんて勝手なことを言ってくれるわ。 私だってこれまでやってきたことを粉々にされるのはごめんよ。 何ならサンジくんと二人と出場したっていいんだから・・・ でも、嫌！ これまで３人でがんばってきたんだもん。 レースに出て、完走して、３人で思いっきり笑いたい。 そのとき私のこれまでの苦労も全て報われる気がするの。 でもゾロは何故レースに出てみる気になったんだろう。 急に疑問に思った。 「あんた、どうしてレースに出てみようと思ったわけ？」 剣道しか頭に無い。 女にも遊びにもまるで興味を持たないあんたが。 「俺は剣一筋にやってきた。それはこれから変わりねえ。 だがな、もう一段階強くなるには、道場で竹刀振ってるだけじゃ埒があかねえ、 そう思っただけだ。判ったか？バカ女。」 「あんたにバカって言われる筋合い無いわよ！剣術バカ！」 「ありがとよ、そいつは俺にとっちゃ賛辞だ、最高のな。」 「バカバカバカ！・・・バカー！！！」 「ケッ」 ゾロは踵を返し、私に背を向けた。 立ち去っていくゾロの背中を見ていると、私の両眼から涙が溢れ出た。 とめどなく溢れる涙は降りしきる雨と一緒になって、私をグシャグシャにする。 そう、私は女神様なんかじゃない。 本当の私は性悪で手癖が悪くて生意気で卑怯で・・・ だから、 私は誰かに、お前はバカだ、どうしようもない女だと、 そう言ってほしかった。 私の全身からこれまで私を支えてきた、虚勢という力が抜けていく。 母を見殺しにした汚い大人達なんか、利用するだけしつくてやる、 そう決意して踏みしめてきた足元がグラグラと崩れていく。 こらえきれずぬかるんだ地面にへたりこんだ。 ゾロの背中はもう見えない。 公園を出て家路についてしまった。 バカ男！ こんな所に私を置いていくの？ びしょ濡れの公園にたった一人で！ 私の声が聞こえないの？ 私の頬をはり倒しておいて、傍にもいてくれないの？ ねえ！ ゾロは戻ってこない。 何の苦労も無い、温かい普通の家庭に戻っていくんだ。 きっとおうちではゾロのお母さんが温かい夕食を用意して待っている。 お父さんも夕方の稽古を終えて、汗を拭きながら食卓につくんだわ。 私とは違いすぎる普通の家庭がゾロにはある・・・ 私はゆっくりと立ち上がった。 白いワンピースは泥だらけ。 ゾロは来ない。 もうここには誰もいない。 私も家に帰らなくちゃ。 ノジコはもう厚い化粧をしてお店に出ているだろう。 ゾロの出ていった方角とは反対側の公園出口へ向かって歩き出した。 よろよろと足元がおぼつかない。 今にも倒れこんでしまいそう。 私は一人、 一人の家に帰る。 ここには優しいサンジくんも、別れた援交の相手もいないのだから。 背後でパシャパシャと水が跳ねる音がした。 それは水を弾く誰かの足音。 少しずつ水音が大きくなる。 後ろから誰かが近づいてくる。 恐くて振り向けない。 それがあいつじゃなかったら私は悲しくておかしくなってしまうわ。 だから振り向けない。 益々大きくなる水を踏んで駆ける音。 足音が私の背後で止まった。 粗い呼吸を整えている。 私の鼓動も早すぎて、今にも息が止まりそう。 シュッと布を抜き取る音がして、黒いバンダナが私の頭に乗せられた。 「びしょ濡れで何処いく気だ？バカ女」 「うッ・・・！」 涙が溢れてきてどうにも止まらない。 これが私がずっと待ち続けてきた声なの？ それでも振り向けずにいると、いきなり太い両腕が背後から伸びてきた。 身体ごとぶつかってきたみたいに。 私の万引きを制した腕が、今度は私の両肩を抱きすくめる。 頭が何も考えられなくなって、ただ涙だけが溢れ出た。 激しい雨にさらされて、自分の身体が背後のものと一緒に冷えて固まった。 無骨な腕に力まかせに抱かれていると、昼間のキスの感触が唇に蘇った。 霧の中そっとサンジくんが触れていった唇。 冷たい雨に晒されながら、そっと熱を与えられた唇だけが切ないまでに熱かった。 |