「Sailing days-5」

「Sailing days-5」

今日は店は定休日、気象庁の発表は一日中曇り、海沿いは濃霧注意報。
学校が退けても、ヨットは出せないし、彼女とは先週別れたばっか。
街にナンパに出る気にもなんねえ。
たまには一人、家でのんびりするのもいいか。
都合のいいことにクソジジイはパチンコに出かけてる。
当代一の料理人っつったって素はただの年くったジジイなんだよな。

部屋でゴロゴロしながら何本目かの煙草に火を点けた。
天井を見上げて頭の中をからっぽにする。
確かにこんな時間も悪くない。

薄くなった酸素を取り戻す為に部屋の窓を開けた。
霧が深すぎて外の海がちっとも見えねえ。
散らばる島影も、白い波頭も。
マリーナに停めてある、クソジジイのヨットも俺たちの「みかんと風車号」も、うっすらと影が映るだけだ。
マリーナに続くステップ上に人影が見えた。
白いワンピースにほっそりとした身体。
霧の中に熔けてしまいそうな程、頼りなく儚げに見えた。
この世の者らしくない白くて虚ろな姿。
いつもの勝気な性格とは裏腹に、綺麗な背中に滲んで見える感情は、寂しさとか悲しみとか、そんなもの。
窓枠から一瞬声をかけそうになった。

「・・・母さん。」

音にした声は誰にも聞こえなかったはずだ。
それは自分だけに発した声だったから。
でも呼びかけられた相手はニッコリと天上の笑みを浮かべて俺を振り返った。

「こんにちは、サンジくん。」
「ナミすわーん！！どおしたのおー？！！」

濃霧の為に今日の出航をやめたのはナミさんの判断だ。

「霧がひどいから船が気になって見にきたのー。」

２階の窓にいる俺に向かって、ナミさんが笑顔たっぷりに答えた。
これってロミオとジュリエット的シチュエーション？・・・いや逆だって。

待っててナミさん、今行くから。・・・２秒で！」

俺は窓を閉めると一気に階段を降りきって、中庭を突っ切ってナミさんの元へ。
時間にして正に２秒。

「あ、足早や。」

「なんの！ナミさんのお傍へ行く為ならば。」

呆れ顔のナミさんがすごくかわいい。
窓から見たときは一瞬違う人のように見えたけど、直に話せばやっぱりいつもと変わりない。

「霧が深いけど、風は無いから船は大丈夫みたいね。」

がっちりと固定されている「みかんと風車」号を見てほっと安堵するナミさん。

「なんかあったら俺がちゃんとしとくって。何の為に俺がここに住んでんだよ。」
「ごめん、サンジくんには色々面倒かけてばっかりね。」
「面倒なんてとんでもない、ナミさんの為ならね♪」
「私、サンジくんのそんなとこに甘えてばっかりで、・・・本当はお父さんに借りを作るの嫌だったんでしょ。」
「だから気にすんなって、友達だろ。」

やっぱりナミさんはいつもとどこか違う。
元気が無いっていうか、いつもの覇気がちょっと足りねーっていうか。

「ナミさん、こっち上がっていきなよ。」

俺はナミさんの手を取って海上テラスへの扉に導いた。
腰のウォールチェーンに下げている、店の鍵を取り出す。
ホワイトフェンスの門扉を開けて、ナミさんをテラスのテーブルに座らせた。

「サンジくん、お店お休みなんでしょ。」
「そッ、だから今は君の貸切。ちょっと待っててね、今冷たい物でもいれるから。」
「いいよ、サンジくん、私すぐ帰るつもりで・・・」
「いいからいいから。」

海上のオープンテラスから又鍵を開けて、厨房に入る。
店中の鍵を持っているのはクソジジイの他には俺だけ。
ナミさんの好きなオレンジをたっぷり使ったスカッシュ。
炭酸は気持ち控えめ。自分用にはブレンド、ブラックで。
チーズクラッカーと一緒に、ナミさんの待つテーブルに置いた。
俺も彼女の正面に座る。

「うわ、美味しそう。」
「ナミさんの為だけのドリンクです。」

ナミさんはクスクス笑いながら、ストローを口にした。
一口飲んだ瞬間に笑顔が光る。

「美味しい！高級ホテルのラウンジで飲むジュースみたい。」
「それ以上って言ってほしいな。」

一口スカッシュを飲む度にナミさんが元気になっていくように見えた。
いつも明るく輝く君でいてほしい。
君を取り巻く暗い噂なんて、似合わない。
君の太陽みたいな温かい明るさに、俺もゾロもいつも救われているんだ。
指先と口元がイライラしてきた。

「サンジくん、煙草吸いたいんでしょ、どうぞ。」
「そお？ごめんね。」

ナミさんは即、察してくれた。
愛しいナミさんが目の前にいる。ここには二人きり。周囲は霧に包まれて何も見えない。
この状況で理性を保っているには、俺にはニコチンが必要だった。

「今日のナミさんはいつもと雰囲気違うから、俺ドキドキしちゃったよ。」
「そりゃ仕方ないでしょ、いつもこんな服着てヨット乗るわけにいかないんだから。」

ナミさんはちらりとワンピースの裾を指でつまんだ。
それだけで心臓に針が突き刺さるような疼きを感じる。

「でもワンピース着てるナミさんも素敵だー、エレガントで。白い女神様みたいだ。」
「よく言うわね、彼女いるくせに。」
「いねーよ。」
「嘘つき。」
「嘘じゃねーよ、先週きれいに別れました。」

ナミさんの手と表情が一瞬固まった。
あ、もしかして彼女いると思って俺のこと警戒してなかった？

「どうして、別れちゃったの？もしかして私たちのレースのせい？」
「いや、そんなんじゃねーよ。」
「・・・ごめんね。」

別れたのは自分のせいだ。
君のことを好きになってしまった自分のせいだ。

「だからナミさんのせいじゃねーって。」
「私、評判悪い女子高生だから、その事で二人に迷惑かけたくないってずっと思ってたんだ。」
「迷惑なんか蒙った覚えはこれっぽっちも無いぜ。どうしたんだよ、ナミさんらしくもねえ。」
「二人共三年生でしょ、色々大変だろうと思って。」
「全然、俺進学する気ねーし、ゾロも体育会系の大学行くっていうから、
体力作り、内申の話題作りには持ってこいじゃねーの。」

ナミさんとヨットレースに出ることで、俺とゾロが失うものなんて何もないはずだ。
しいて言えば時間くらいだ。
スカッシュで元気になったナミさんの表情が又曇る。

「誰かになんか言われた？」

何も言わずに下を向いて首を振った。
じゃあ、どうして君はそんなにも沈んでいるの。

「元気出してほしいな、ナミさんは俺の女神様なんだから。」
「違う違う！」

ナミさんは急に大きな声で否定した。

「私、違う、女神様なんかじゃない。私、・・・汚れてんだから！」
「ナミさん。」
「サンジくん、聞いた事無い？私、女の子達からなんて言われてるか。」
「学校始って以来の秀才だろ。」
「そうじゃなくて！」

女の子達の噂、それは先週別れた彼女が口にしたことだろう。
でも俺はその事は知らないで通すつもりだ。
君が望んでしている事ならきっと何か意味があるはずだし。
それを言いたくないのなら、問い質そうとも思わない。
俺が好きになったのは、今、目の前にいる君で、それ以外のことには興味が無い。
多分君は俺がその噂を知っていると思ってるんだろう。
知っていて俺の口から聞き出そうとしている。
汚れた自分を更に傷つける理由が欲しいんだ。
でも俺は言わないし、知らないフリをする。
君が身体を売っていることを俺は知らない。
それが本当の優しさかどうかは判らないが、それが俺のやり方。

憤りを隠しもせず、ナミさんが椅子から立ち上がった。
そのままテラスの際まで歩いていき、手すりに両手を預ける。
俺は煙草を咥えたまま、後を追い彼女の横に並んだ。
二人で海を臨んでも霧が深くて何も見えない。

「いつもならここから島がいっぱい見えるのにね。」

ナミさんは少し落ち着いた様子だ。

「全くこれじゃなーんも見えねえ、ミルク鍋の具になった気分だな。」
「サンジくんってやっぱ頭の中お料理の事ばっかりなんだねえ。」

クスクスと喉の奥で笑う。
やっぱりナミさんが笑っていると俺はほっとするな。

「こうしてると島だらけのこの海も、外に開けた海みたいね。」
「ん？ああそうだね。」
「この内海で、水平線が見えるのはほんの僅か。
その向こうには何があるのか行ってみたいと思ったことない？」

なくもねーけど・・・

「あの向こうはまたでかーい島があって、その向こうは太平洋。」
「そうよ、その太平洋よ。私ね船乗りになりたいの。」
「船乗り？ナミさんが？」
「そう、外国航路の航海士よ。」

正直言って驚いた。ナミさんが人に言うと減ると断言するほど大切にしている夢。
それが外国航路の航海士とは。
でもそれを聞くと、ナミさんに関する全てのキーワードを解ける気がした。

「それでＴ大受験をけってたのか？ヨット始めたのもその為？」
「そうよ、私上京して商船大学に入りたいの。一流の航海士になって世界を廻るんだ。」
「そりゃ、ナミさんらしいや。」

半年から一年に及ぶ外国航路の船舶で女の航海士を雇う会社は無いだろう。
せいぜい定期航路の国内便にナビゲーターとして採用するくらいだ。
それでも夢を語るナミさんはさっきの沈みがちの様子とはうって変わって、
これまで見たよりもずっと光って見える。
ナミさんがどれほどその夢を大切にして、努力してきたかがよく判る。

「その為にはお金が要るわ。私何としてもお金を貯めて東京に行くんだ。」
「上京するには金かかるからな。」
「うん、私んちボンビーだからね。」

二人の間に沈黙が流れた。
俺も母親と暮らしていた頃は今みたいに中流家庭じゃなかったから
金が無いことのつらさはよく判る。
それは夢を抱く子供には耐え難い苦痛なんだ。
俺の頭にナミさんと腕を組んで歩いていた、中年男の姿が浮かんだ。
ナミさんは上京する金を貯めたくて、あんなことをしてたのか。
それは今流行りのゲームみたいなものじゃなくて、彼女のプライドを突き崩す苦痛の日々だったんだろう。
全ては自分の夢の為に。

「早く東京に出たい、１日でも早く。」

ナミさんは見えない海の向こうを見つめて呟いた。

「この街が嫌いなの？ナミさんは。」
「ううん、好きよ、大好き。でもね、この街は、息が詰るわ。
島に囲まれて身動きできないみたい。もっと広い世界が見たいの。」
「ナミさんはどこにいたって光ってる女の子だよ。東京に行っちまうのは、クソ寂しいけどさ。」

俺は溜め息に似た煙草の煙を吐き出した。
ナミさんは霧中の大気から俺の横顔に視線を移す。

「サンジくん・・・」

緩い海風に霧が流れる。
まるで二人きりで違う世界に来たみたいだ。
意識より先に無意識が彼女の唇を捉えていた。
かすめるような、ほんの少し触れるだけの口づけ。
いきなり触れた唇が驚きを伝えて小さく震えていた。
大きな瞳が俺に訴える。

-どうしてこんなことするの？-

-君が好きだからだよ-

言葉にしないまま、見つめ合った。

「サンジくん、私ね・・・」

細い身体をそっと抱き寄せた。
彼女の語ろうとする言葉を阻むように。
ナミさんは俺の胸にそっと頭を預ける。

「ナミさん、忘れないで。君は俺たちの女神様なんだ。」
「違う、私、サンジくんに言えない話たくさんあんのよ。」
「いいんだ、そんなこと。」

取り巻く霧から更に彼女を隠すように、背中を包み込んだ。
彼女の悲しみが誰にも悟られないように。
この霧が晴れたら、またいつものように明るく太陽みたいなナミさんに戻れるように。
愛情というより、労わり、恋情というより友愛。

背中に回した腕を両肩に置いて俺はナミさんと真正面から向き合った。

「ねえ、ナミさん、俺とゾロとどっちが好き？」
「え？」

いきなり雰囲気を変えていつもの様子に引き戻す。
少し面食らいながら、ナミさんもいつもの含みのある笑顔を見せた。

「そうね・・・判んないわ、今のとこ。」
「だったら絶対俺にしときなよ、損はさせねーから。」
「もう、サンジくんったら。」

マジで口説いている時もどこか不真面目な俺。
だって、ナミさんを深刻に悩ませたくねーから。
言葉は軽くても気持ちは真実。
ナミさんは頭の良い女の子だから、伝わっているはずだ。

「このレースが終わったら、俺とゾロで君の争奪戦だな、覚悟しといてね。」
「ゾロは、知らないわよ。」
「んー、ムカつくけどあいつも相当君に惚れてるね、気づいてねーんだ。
もっとも俺もゾロも敵わねーライバルがいるみたいだけど。」
「？誰それ？」

俺は霧に包まれた海の向こうを指差した。
晴れてさえいれば、そこにだけ見えるはずの僅かな水平線。

ナミさんは明るく声に出して笑い飛ばした。

「アハハ、ほんとね、今のとこ私の夢には誰も敵わないわ。」

夢を語る君が好きだ。
だからその夢に手が届くまで、俺は自分の気持ちをここで押し留めておこうと思う。
いつか３人で思いっきり笑うために。
又霧が深く流れてきた。
再び海を臨むナミさんを、背後から見守った。
手を伸ばせば届く位置にいるのに、まるで異空間にいるみたいに遠く感じる。
姿は見えるのに、触れればつき抜けてしまうような。
白い背中が霧に吸い込まれて、このままどこかに行っちまいそうな気がした。

ナミさん、

　君は何を考えているの？

　　何をしようとしてるの？

君は誰が好きなの？

　霧が濃くて、君が見えない。

　　風が流れて、君を追えない。

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