「Sailing days-4」


ナミさんがヨットレースのエントリー申し込みをして以来、俺たちは毎日クソ忙しい日々を送っていた。
ナミさんの古くからの知り合いだというゲンさんに３人揃って頭を下げて、愛用のディンギーヨットを借り受ける。
船をレース用に改造するために資金を出してくれるスポンサーを探し、練習用のコースを選出して、
ほとんど連日通いつめた。
悔しいことにクソジジイもそのスポンサーの一人で、ディンギーを搬送するために自分の船を貸してくれることになった。
そのための燃料も人間の燃料も快く協力してくれるという。
全てはナミさんの幸せぱんち！な笑顔の賜物。
メインセイルを新品に交換し、ナミさんの抜群のメンテナンスによって軽量化された俺たちの船。
「みかんと風車」号はひんぱんに内海にその姿を見せるようになった。


そして今日は久しぶりに彼女とのデートの日。

「ほら、見て。俺、随分筋肉ついたと思わねえ？」

オープンテラスのカフェで、彼女に左腕を見せた。

「腕力つけないと話になんねーからな、ゾロの奴に借りて毎日バーベル上げてんの俺。」
「ふーん・・・。」

穏やかな午後の昼下がり、ストローでアイスティーを啜る彼女は、今日会ってからずっと機嫌が悪い。
無理もねえ、ここんところくにデートどころか連絡すらしなかった。
どんなに忙しくてもそういうケアはキチンとするはずの俺なのに。
どうもこの所、優先順位が変わってきている。
そんな俺を彼女は敏感に感じ取る。彼女はとっても頭が良くてカンのいい子なんだ。
彼女はアイスティーをグラスの底まで飲み干した。
チュと音を立てる唇が膨らんで以前はすげえかわいかったのに、今の俺は何も感じない。
そんな自分をすまないと思いながら、どうにもできないことに苛立ちを感じる。

「そんなに楽しい？ヨットレース。」
「楽しいよ、今度見に来いよ。」
「ううん、あたし船酔いするし。」

すぐに途切れる会話。

いつまでも機嫌の良くならない彼女に少しイラついてきた。勿論顔に出したりしねえけど。
キミだっていけないんだぜ。前はこんなにノリの悪い女の子じゃなかったじゃねえか。
「サンジさんの行くとこにはどこだってついてくわ。」そう言ってたのはそんなに昔じゃなかったはずだ。
テラスの傍を道行く人がちらりと俺たちを覗き込んで、そして何も見てないフリをして通り過ぎていく。
いまいち良くない雰囲気の俺たちはどうやら訳ありカップルに見えるらしい。
クソッ！

居心地の悪いテラスに舌打しながら、俺は彼女から視線を逸らした。
だって彼女はさっきから俺のほうを見ようとしないから。
繁華街をたくさんの人が行き交ってる。
その人込みの中に一瞬、その姿は俺と彼女の視界に入った。

「あ・・・」
「・・・あの人でしょ、ナミさんって。」
「え？ああそうだよ。」
「声かけないの？」
「・・・・・。」

かけられるわけが無い。ナミさんは知らない男の腕を取って、歩いていた。
父親と言ってもおかしくない年齢、背広を着た中年の男の腕を。
人目をしのぐように肩をすくめ、制服のまま薄い化粧を施したナミさんは、中年男と雑踏の中に消えていった。
ナミさんに父親はいない。
見なかったことにしよう。今度ナミさんに会った時普通に接してあげられるように。
ナミさんは俺の女神様なんだから。
見なかったことにする、それが俺のやり方。

「あの人、評判最悪だよ。」

下を向いたままぽつりと呟く彼女。

「知ってんの？」
「中学一緒だったから。よく噂聞くし。」
「噂ね・・・。」
「あの人、おうちすごいボンビーなんでしょ。
お母さんが亡くなって、お姉さんが働いてあの人学校に行かせてるらしいじゃない。」

彼女の言葉にはあからさまな悪意が潜んでいた。

「まあ、ナミさんは学校始って以来の秀才だからね。５教科総合４９８点なんて数字、俺見たこともねーよ。」

「そんなに凄い？あの人。」
「ああ、頭は良いし、度胸は据わってるし、船の知識はそこらの親父共よりよっぽど詳しいぜ。」
「頭が良いからって、あんな・・・」
「あんなって？」

彼女はいきなり声を荒げた。
勢いよく椅子から立ち上がる。テーブルの上のグラスが小さく音を立てた。

「サンジくん見たでしょ、判ってるんでしょ！あの人ウリやってんのよ！！」
「どこにそんな証拠があんの？」
「だって！今！」

彼女はナミさんが男と消えた雑踏を指差した。
もちろんそこに二人の姿は無い。

「ナミさんが男と歩いてたからって、ウリやってることにはなんねーだろ。
俺はウリやってるとこなんて見てねーし、キミだって単なる噂で聞いただけだ。」
「サンジくん！それで、それでいいの？そんなにあの人がいいの？！」
「彼女は俺たちのスキッパーだよ、ナミさんがいなきゃ俺たちは船出すこともできやしねえ。」

彼女は下を向いて溢れる感情を抑えもせずに、ただ怒りに身を任せた。

「何よ、ヨットの事ばっかり！最近のあなたの話はヨットとあの人の事ばっかりじゃない。」
「だから見にくりゃ判るよ、俺たちはこのレースに自分を賭けてんだ。後戻りできねーほどのめりこんでるんだよ。」
「知らないわよ！そんなこと。」

彼女は俺の目の前に感情を吐き出し始めた。
俺は聞くとはなしに聞いていたけど、段々腹が立ってきた。
そりゃ、ろくに電話もメールもいれなかったのは俺が悪ィぜ。
だけどさ、たとえレースが無くたって、店の手伝いや深夜のバイトで俺がいつもクソ忙しいっての、判ってるはずだろ。
それを君がいきなり許せなくなるってのはちっと道理に合わないぜ。
彼女が何を怒っているのかは明白だ。
俺の心に自分の居場所が見えないって事だ。

「俺さ、これまで夢中になって何かをやるってなかったんだ。
悪いけど今は君の言う通り頭ン中ヨットのことばっかかもしんねえ。」

言い訳だ。ヨットだけが理由なわけじゃない。

「何にしてもあたしこれじゃ耐えらんないわ。今のサンジくんは私の為に時間を使わな過ぎる。」
「苦痛だってこと？俺と付き合ってんのが。」
「そうよ！」

半分涙声になって俺をなじる彼女。
テーブルの上のアイスティーはとっくに空になっていて、残った氷も全部溶けきっちまった。
俺と彼女の間に交わせる言葉はもう何も無いんだろうか。

「ヨットレースが終わるまで、長い目で見てくれる気ねえ？」
「いや！あの人がいるもの！」

ナミさんとゾロと過ごすこと自体、彼女には許せないことらしい。
俺とナミさんは今んとこチームメイト以外の何でもないってのに。
大体女の子は、男が自分以外のものに夢中になる事を嫌う。
それがたとえ受験だろうが、趣味だろうが、夢だろうが、他の女だろうが、一切お構いなしに。

「なら、仕方ねーか。」

彼女は意外そうな顔をした。
俺から別れを切り出されるなんて思ってもみなかったんだろう。
いつだって俺は女の子を追いかける男だから。
やがて彼女はホウと溜め息を一つつくと、ずっと胸に溜め込んでいた言葉を吐き出した。

「さよなら、もう街で会っても声かけないでね。」

毅然として瞳に物を言わせ、彼女は言い放った。

「さよなら、楽しかったよ、５ヶ月。」
「・・・よく言うわね。」

それが彼女の最後の言葉

バッグを鷲掴みにして立ち上がった。

これで終わり・・・か。

ふいにこれまで楽しく過ごした日々がフラッシュバックした。
でもそんな情けねえ自分を彼女に悟られたくなくて、ついとぼけたふりをした。
席を立った彼女の腕をそっと掴んで、

「お別れ記念にヤってかねえ？」

バシャーン！水音がそこら中に響き渡る。
ちぇ、５ヶ月の付き合いの精算はコップの水かよ。

好きにしやがれ。

彼女が立ち去った後、一人で席に残り、煙草に火を点けた。
ライターの石が湿ってうまく点きやしねえ。
クソ野朗が！
濡れた髪をかきあげながら煙を吐き出す。
店の客がこっちをずっと眺めているが、構うこっちゃねえ。
見せもんじゃねえが、面白けりゃ勝手に見てろ！
両足を投げ出し思わず声に出して言ってみた。

「・・・・あーあ、クッソ振られたー！！」

吐き出した煙の向こうに、そろそろ実を結ぼうとしている夏みかんの花が清らかに香っていた。


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いきなり暇になっちまったせいで、その日は早めに店の厨房に入った。
自宅の部屋で煙草吹かしてると、ムカつくことばかり思い出して嫌になる。
こんなときは力任せにマヨネーズでも練っていた方がましだ。
本来なら入ったばかりの新米コックの仕事であるそれを俺は飽きもせず、続けていた。
ちなみにうちの店はマヨネーズは可能な限り作り置きしない主義。
隣の調理台ではカルネが白身魚を相手に包丁を振るっている。

「なんでえ、オーナーの跡取り息子ともあろうもんが、シケた面してマヨネーズと格闘かよ。」

俺が厨房に入った時点で、今日のデートがお流れになったことに気づいたカルネはやたらと俺につっかってくる。
いつもの事だが、うっとうしい奴だ。

「うっせいな、誰かがやんなきゃなんねーだろ、この店は万年人手不足なんだからよ。」
「しかしあれか？今日のご機嫌ななめはもしや女に振られたってか？」

ニタニタ笑いながら聞いてくる。
余計なお世話だっつーんだよ。他の連中も面白がって聞き耳立ててんじゃねーっての。

「別にどうだっていいだろ。」

マヨネーズを練る手に力がこもる。
ヨットレースの為にバーベル上げたのはやっぱ無駄じゃなかったみてーだ。

「そういや、こいつ帰ってきた時、頭水浸しだったぜ。俺、厨房の窓から見えたもん。」

焼き番のコックがフライパンを反しながら冷やかした。
ったく、ろくな連中じゃねーや。

「聞いたか？おい、パティ、こいつ振られたんだってよ！」

カルネは相棒コックパティに話しかけた。
冷蔵庫から特製プリンを取り出し、パティは俺とカルネを振り返る。

「ほー、そりゃおもしれえ事もあるもんだ。」
「だろ。やっぱこいつくらいの色男でも振られるときは振られるんだぜ、安心しろや、相棒。」
「俺は別に安心する必要はねえ。愛しのロクサーヌちゃんは俺のデザートの虜だかんな。」
「そりゃお前の虜じゃなくて、デザートの虜だろ。」

厨房のコック達がどっと笑い出す。
うるせーな、こいつら。

「しかしな、サンジ。水で良かったぜ。・・・酒だとな、染みやら匂いがついて後が大変なんだぜィ。」
「・・・・」

知るかよ、俺ら高校生だっての。
俺はカルネを無視してマヨネーズを練り続けた。

「まあ、これでお前も心置きなくナミちゃんを口説けるってもんだろうが、好都合って奴じゃねーのか。」

毎回毎回うちのマリーナから船を出すのは考えもんだぜ。
おまけにクソジジイがゾロやナミさんにメシ食わしてやったりするから、この店の連中は俺のヨットチームのことをよく知っていやがる。 大体それこそ余計なお世話だ。
俺は口説くときは何があったって口説くし、口説かねーときは何が何でも口説きゃしねえよ。
カルネはいつまでもニタニタ顔をしまわねえ。

「カルネ、お前な。口ばっかで開けてねーで、ちったあまともに働きやがれ。」
「なんだと、このガキャ！コックでもねーくせに、偉そうに！」

俺は泡立て器でカルネの目の前に置かれたバットを指し示した。

「バカ野朗、お前ムニエルの粉つき過ぎなんだよ。
　そりゃうちの店は上質の粉使ってっけどな、ババアの厚化粧みてーに粉はたくと、味が野暮ったくなんだろうが。
　え？プロのコックさんよ。」

カルネは慌てて手にしていた白身魚の切り身に視線を移した。
焦った様子で半身から粉をはたき落とす。
バカが。

俺の一言で他のコック達も無駄話をやめて自分の仕事に戻った。
これで鍋でも焦がしやがったら、全員蹴り飛ばしてやるぜ、クソコック共。
急にシンとした厨房にギャルソンの一人が飛び込んできた。

「おい、みんな聞いてくれ。今日の売り上げは凄いぜ。
　今年一番の客入りで最高の売り上げだ。オーナーが今夜はみんなで宴会だとさ。」

「うおー！！」「やったー！」「俺のデザートのお陰だぜー！」

コック達はたちまち喚声を上げて、大喜びだ。
バラティエの宴会は飲み放題食い放題なだけじゃねえ。
貴重なオーナーの作る即興料理（クソジジイが何となくその場の雰囲気で作る料理、俺はそう呼んでる）が試食できる。
ったく、俺の最悪の日に、この店は最高かよ。
やってらんねーぜ。

俄然張り切りだしたコック達は今夜の宴会を楽しみに待ちながら、自分達の料理を次々と作り上げていった。


＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊


深夜零時、店は閉店。
バラティエではにぎにぎしく宴会が開かれていた。
客室からパティやカルネのバカ騒ぎが聞こえてくる。
俺は連中と一緒に騒ぐ気にはなれなかったんで、厨房で一人明日の仕込みをしていた。
まったく今日は長い一日だぜ。
ビーフシチューの下拵えの為に大量のたまねぎの皮を剥いていた。

「チビナス、風呂沸いてるか？」

ふいにクソジジイが厨房にいかつい顔を出してきた。
鼻の頭が赤くなって、酒臭え。
珍しく千鳥足になるまで酔ってやがる。

「沸いてるぜ、とっとと入れよ。」

クソジジイは俺の言葉には返事もせずに、調理台を覗き込んだ。
肉の塩コショウ具合やら、スープの透明度を確認する。
酔っ払いの頭でちゃんとわかんのかよ、このジジイ。

「フン、まあ一応シチューにはなりそうだな。」

け！偉そうに・・・・って偉いんだけどよ、この店じゃ。
クソジジイは片手にウィスキーのボトルを持ったまま厨房の椅子にどかんと座り込んだ。
何だよ、居座る気かよ。風呂入れよ！

「おう、チビナス。おめえ二股かけそうになって、振られたんだってな。」

バカカルネが余計なことを。後でぶっ飛ばしてやる。

「振られたんじゃねーよ。」
「じゃなんでえ？」
「・・・・別れたんだよ。」
「ケケケ・・・でっへっへっへ・・・・ざまあみろ。」
「クソジジイー！」

こいつ何しに来たんだよ。俺のことからかいに来たのか！！

「んまあ、あれだ。おめえの気が多いのは病気だからな。しばらくは店でシケたメシでも作ってろや。」
「ご心配して下さってどうも。せっかくだけどヨットのトレーニングで大忙しだよ。」

クソジジイはウィスキーをラッパ飲みしてゲラゲラ笑ったままだ。
こいつ、蹴り飛ばしてやろうか。

「なんつってもな、二股はやめとけや。後が面倒だぜ。」

こいつの口からだけは聞きたくねー言葉だ。
苛立ちが頂点に辿り着くぜ。

でも酔った勢いで聞きたいことを聞くのもいいかもしんねえ。
今ならふざけたことを聞いても明日には覚えてないかもしれねえ。
まずは俺の母親とのこと。

「そういうてめえは二股かけたことねーのかよ。」
「フン、おりゃ、これまで３度結婚したが、ただの一度も二股だのやましいことした覚えはねーぜ。」

俺は父親の顔を見ずに、仕込みに集中しているフリをしていた。
何気なく言葉を続ける。

「じゃあ、どうして俺の母親と結婚しなかったわけ？」

私生児を産ませ、死ぬまで女をほったらかしにしたことは、やましいことじゃ無えってのか。

「そりゃ、仕方ねーだろ。そん時ァ、嫁がいたもんでな。」
「・・・クっ！！！」

俺は包丁を握り締めた。
俺が必死の思いで聞いたことを、こいつは！
第一言ってることと、やってることがてんでバラバラじゃねーか！

「てめえ、酔っ払いの色ボケジジイ！いつか殺してやるぜ。！！」
「ああ、好きにしろ。この世の女の顔もそろそろ見飽きた。」

包丁をまな板に叩きつけ、俺はクソジジイの胸倉を掴んだ。
生かしておけねえ、こいつだけは！

「ハッタリじゃねーからな、てめえみてえな女の敵は俺が引導渡してやる！」
「おもしれえ、てめえが俺を殺してもサツに訴え出るなと、キーナとティティに遺言しといてやるぜ。」


クソジジイ・・・

・・・・俺、理由は色々あるけど・・・

こ、こいつ・・・が
この男・・・・が！！

・・・・・・・・・・・・・嫌いだ！！


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