「Sailing days-2」
僅か１時間ばかりの航海を終えて、俺たち３人はバラティエのマリーナに戻った。
西の海がオレンジに染まり始め、まだ浮かんでいる夕陽を迎え入れようとしている。
内海に点在する島々は、黄昏の海に影を落とした。
船から見たバラティエはもう夜の営業時間に入っていて、そろそろ忙しくなりつつあるようだ。
マリーナに船を入れてがっちりと固定する。
水場からホースで水道水を引き込んで、船体のクリーニングをした。
俺とゾロが二人でクリーニングをしている間、ナミさんは燃料の残を確認したり、セイルに破損が無いか、
ロープが痛んでないか、あちこち点検してくれていた。
「どこも異常ないわ。燃料も余り減らなかったし。ありがとね、サンジくん。」
「楽しんで頂けましたか、ナミさん！」
「もちろん、最高の気分よ。ペーパーで覚えた操船とナビが完璧に実践できたんだもん。」
「男二人がてめえの号令一つで動くんだから、そりゃいい気分だろうよ。」
デッキブラシを担いでゾロがぼやく。
ここまでナミさんにご一緒して頂いて、全くもって失礼な奴だぜ。
女性の意を尊重すんのは、男にとって最低の礼儀だろうが。
そんなんだから、これまで女の子とデートの一つもしたことねーんだ。
別にしたい訳でもないらしいけど。
「じゃあ、私帰るわ。又乗せてくれる？サンジくん。」
「もっちろん！！いつなりと。」
「嬉しいわ、ありがと。じゃあね。・・・あ、そこのバラストにも一応言っとくわね。
今日はとても楽しゅうございましたわ、ごきげんよう。」
「誰がバラストだ、バカ女。」
ナミさんは俺とバラストにニッコリと笑みを残すと、背を向けて軽快にステップを駆け上がっていった。
その後ろ姿の愛らしさといったら、もうたまんねえ・・・
短いスカートの中が見えそうで見えねえとこがいいんだよね。
俺、本気で今の彼女と別れようかしらん。
それだけの価値は十分あるぜ、あのかわいいお尻には・・・
でもかわいいお尻に見とれてるのは俺だけじゃなかった。
俺の横でバラスト、じゃなくてゾロの奴まで口をへの字に曲げて、斜に構えた視線を送っていた。
剣道のこと以外、女にも遊びにもまるで興味を持ったことのねーこいつが。
「お前な、ナミさんは学校始って以来の秀才だぜ。失礼なこと抜かすんじゃねえ。」
「秀才だろうが、天才だろうが、生意気な女に変わりはねえ。」
「お前な、俺とナミさんの間に割って入って偉そうに言うんじゃねーよ。」
ゾロはブスッとした表情で持っていたデッキブラシを放り投げた。
「けッ！女に使われてヘラヘラしてるだけだろうが。」
それが嬉しいんだけど、俺。レディのお役に立つのが俺の喜びなわけで。
俺もゾロもナミさんも同じ高校だから互いに顔見知りではあるけれど、個人的に親しくしたのは今日が初めてだ。
でも俺はこいつとは親しくなりたかねえ。
俺が仲良しになりたいのはナミさんだ。
そういやナミさんとゾロはやたらと口げんかしてたな。お互いが我慢ならない性格みたいだ。
ゾロは船室から自分のカバンを取り出した。１時間前まで、こいつの枕になっていた学生カバンだ。
「おう、クソコック。あの女ぜってーなんか企んでるぜ。今にひでえ目に合わされるぞ。」
「お前に言われたかねーよ、も、来んな、てめえ。」
「・・・来る！それでてめえが嫌がるならな。」
なあにー！そんなに俺に嫌がらせしてーのか。
てめえは俺とナミさんが仲良くなるのがそんなに気に入らねーのか、ああ？
「オロすぞ！このくされ腹巻。」
と、意気込んだ俺の声と蹴りは奴には届かなかった。
ゾロはひらりと身をかわしカバンを肩に担ぐと、ナミさんの後を追うように、ステップを上がっていった。
「んじゃ、俺も帰って着替えるか。」
ヨットの始末を終えて、俺もステップを上がり自宅の玄関へ向かった。
途中の中庭からディナーの仕込みが匂ってくる。
いい感じに煮上がったビーフシチューだ。
通り過ぎようとすると、いきなり厨房の窓からニューっと顔が出てきた。
「うわ、汚ねー顔突き出すなよ、カルネ。」
「すまねえ、サンジ、又頼むわ。」
不精ひげに黒メガネ、バラティエの古参コックの一人、カルネだ。
カルネはお玉を持ったまま、汗を拭きつつ俺に懇願する。
「今日はどっちだ？」
「客室の方、頼む。厨房は何とかするから。」
「判ったよ、ちょっと待ってろ。」
又店がパニクってるらしい。
大体オーナーのクソジジイが鬼みてーな性格だから、気の弱い奴はこの店に長くいられない。
つい先週もウェイターがまとめて辞めちまったばかりだ。
まったく人員の管理がなってねー店だぜ。
俺はガキの頃から店の表も裏も手伝ってきたから、ギャルソンでもソムリエでも何でもこなせる。
コックでもパティシエでも。
この店でできねえことは何もない。
ただ正規の従業員じゃないだけだ。
俺はこの店では半端者。ギャルソンでもソムリエでもコックでもパティシエでもない。
ただオーナーの息子だから、店のことは誰よりもよく知ってる。
ただそれだけ。
俺はただ料理が好きなだけ。
自分の部屋で接客用のスーツに着替え、きっちりとネクタイを締める。
童顔の俺でも少しだけ大人に見えるような気がする。
早く、大人になりてーな、誰にも文句言われない大人に。
半端もんじゃねえ、本当の自分に。
そんな思いが机の上の煙草に手を伸ばさせた。
「なんでェ、半端もんのチビナスがウェイターの真似事か。」
客の注文したデザートを手にして、ホールへ出ようとする俺に、あいつが声をかけてきた。
髭をたくわえたいかめしい顔、レストランバラティエのオーナーシェフ。
一代でこの地に店を構え、年毎に拡大し、自分の味をかたくなに守り続けてきた男。
俺の父親。
そういや、ここしばらくゆっくり顔も見てなけりゃろくに口をきくこともなかった。
同じ家に住んでるってのに。
食事はお互い店で取ったり、自宅で勝手に作ったりで一緒にメシ食うこともねえ。
姉ちゃん達が嫁にいき、取り残された俺と父親は前にも増して、話すことがなくなった。
近くて遠い存在、好きで嫌いな父親。
誰もが認める料理人として頂点を極めた男。
そんな父親とどう接していいのかわからなくて、むやみやたらと反発を繰り返す俺は、考えあぐねて姉達に尋ねたことがある。
クソジジイと二人きりでどんな風に暮らしていけばいいのかわからねェと。殺し合いになるかもしれないよって。
ハナの長い長姉はあっさりと『父親に反発したい年頃よ。』なんて半分笑い飛ばしやがったし、
美人の次姉は、『あなたが思う通りに接すればいいのよ。』と優しく言った。
「半端もんの真似事でもいねえより、ましだろ。」
「フン、チビナスの手なんぞ借りんでもやってけるぜ。」
俺は料理が好きで、食ってもらうことが嬉しくて、食ってくれた人の顔が見たくて、客室の手伝いも喜んでやってきた。
でもいつの頃からか、生じた疑問を捨てきれなくなって、親父の傍でニコニコ笑って料理してられなくなったんだ。
拭いされない疑問、偉大な父親が身近にいる苦痛。
『失礼します、本日のデザート白桃のムースでございます。』
『まあ、なんて素敵なデザートでしょう。一体どなたがお作りになったのかしら。』
『俺が作ったんですよ、お客様。』
『あなたが？まあまだ１０歳ちょっとでしょう、あなた。』
『１２歳です。』
『１２歳？、じゃあ、あなたがサンジくんね。先年こちらに引き取られたって評判の・・・
オーナーゼフも安心ね。あなたのような立派な跡継ぎができて。
バラティエも安泰というわけね、上のお子さん達は女の子ですものね。』
『・・・どうぞ、クリームが熔けないうちにお召し上がり下さい。』
チビだった俺はその中年のおばはんの言うことを、正面から受け止めてはいなかったけど、
次第に俺が腕を上げていくと、誰もが口を揃えたように同じことを言い始めた。
『立派な跡継ぎができて、安心ね。』
俺は店の為にこの家に引き取られた？クソジジイの跡目を継ぐ為に。
俺の人生って始めから決まってるようなもんなのか？
俺が生まれた時、クソジジイは俺の母親と結婚していなかった。
生涯誰とも結婚することの無かった母は子供の俺の目から見ても、男出入りの激しい女だった。
この家には女の子しかいなかったから、俺が料理好きの子供だったから。
その為に俺を息子にしたのか？
俺じゃなくても良かったわけ？料理上手な男の子なら誰でも良かったんじゃ・・・
そんなことは誰にも聞けない。今、自分の目の前にいる男からも。
「俺が手伝わなきゃ、客室はパニックと苦情の嵐だぜ。なんならそのイカついツラでこれ運ぶ？」
俺はクソジジイに手にしていたトレイを見せた。
トレイの上には乙女の幻想がデザートになったような実にめるふぇんな一品、
イチゴとチェリーのスペシャルチョコレートパフェ。
クソジジイは苦虫を噛み潰したような顔で舌打する。
「・・・とっとと持っていきやがれ、クリームが溶けちまう。」
「oui monsieur.」
軽やかに客席に向かう俺の背をクソジジイの視線が追ってくる。
客にパフェを差し出しながら笑顔を作ると、昼間聞いたクソ教師の言葉が頭に蘇った。
『オーナーゼフは本当に君の父上なのかね。』
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