５月の風−２ その日、病院からどんなふうにじいちゃんの家に帰ったか、よく覚えてねえ。 兄ちゃんはわざと明るくふるまって、やたらと助手席の俺に話しかけてきたけど、 俺は何も答えなかったし、兄ちゃんも何も聞き返したりしなかった。 信号をいくつか超えると、俺達はどちらもしゃべらなくなった。 院長室から蒼白な顔色で戻ってきた兄ちゃんに、俺は何も聞かなかった。 院長先生と兄ちゃんの話の内容を俺は絶対に知りたくなかったんだ。 母ちゃんも兄ちゃんには何も聞かず、『また来てね、サンジ。』とだけ言って俺達を帰した。 車の中の空気がやたら重たくて、息がつまりそうだった。 たまりかねて、兄ちゃんがカーステレオのボリュームを上げたけど、 俺には全く縁の無い洋楽で、大した役には立たなかった。 「ウソップ、グラサン取ってくれ。そこのダッシュボードに入ってる。」 俺は兄ちゃんに黒いサングラスを渡した。 兄ちゃんは顔の左側が髪の毛で隠れているから、俺の目には兄ちゃんがどんな表情をしてるのか判らなかった。 もしかして兄ちゃん、泣いてんのか？ ずるいぞ！子供の俺がこんなに我慢してんのに。 サングラスをかけた兄ちゃんは鼻をぐすっとすすった。 馬鹿野朗！兄ちゃんのバカバカバカ！ 黙りこくった俺達を乗せたまま、車はバラティエに着いた。 その夜、晩飯の後、俺は誰とも話さずに自分の部屋にとっとと引きこもった。 何も考えたくない。ただ早く眠りたかった。早く自分の意識を消してしまいたかった。 やたらと早く寝床に入ったせいだろう。夜中に目が覚めちまった。 喉が渇いたなあと思って、１階に水を飲みに行ったんだ。 そしたら、台所の明かりが点いていた。 そっと近づいていくと、誰かが言い争ってる。 近づけば段々とそれが誰と誰の声かわかってきた。 じいちゃんと兄ちゃんだ。 二人とも店が引けてからここで話し込んでいるらしかった。 バラティエには閉店時間が無い。 ラストオーダーを経て、店が終わるのは最後の客が席を立ったときだ。 それが一流店なのだと兄ちゃんもじいちゃんもいつも言ってる。 ちょっとばかり開いた、台所のドアの隙間から、中の様子を窺った。 「それで、医者は何だと言ってやがんだ？」 静かなじいちゃんの声。じいちゃんは台所の椅子に腰掛けていた。じいちゃんは足が悪いんだ。 なぜかは未だに知らないけど、右足の膝から下が無い。 「もって１ヶ月だと。親しい人には連絡してくれって言われた。」 兄ちゃんは立ったまま、じいちゃんの問いに答えている。 「なんてこった・・・まだ若いってのに。」 「ひでえよ。まだ１０かそこらの子供だぜ、ウソップは。」 自分の名前が出て心臓がどきんと飛び上がった。 ドアの影に隠れて聞き耳を立てた。 「あの医者はとんでもねえごうつくババアだが、見立ては完璧だ。 あの婆さんがそう言うからには、キーナは梅雨を越せんだろう。覚悟はしておかにゃな。」 「クソッ！」 舌打する兄ちゃんの声が震えていた。大きな溜め息を吐くじいちゃん。 俺は・・・頭の中がぼんやりして、霞がかかったみたいに、二人の話を聞くともなく聞いていた。 「クソジジイ、俺、休みもらうぜ。」 「・・・何だと？何、寝言言ってやがんだ、てめえ。」 「寝言じゃねーや、まじめに言ってんだぜ、休みもらうからな！３週間、いや、２週間でいい。」 「勝手なことを言いやがって、なんだてめえは。この店の下働きか？ 責任ある立場のもんが、いきなり２週間も休むなんぞ、話にならねえ、てめえは何の為に東京で修行して戻ってきやがったんだ。」 「何て言われたって構やしねー！俺はヤソップを探しに行く！」 また心臓が跳ね上がった。父ちゃん？俺の父ちゃんを兄ちゃんが探しに行くって？ 「どこにいるともわからん者をどうやって探すってんだ？」 「地中海周りの輸入業者が言ってた、モロッコ沖で赤髪の船を見たって。」 「当てになるかよ、第一ヤソップを探し出して、おめえどうしようってんだ？」 「オロスに決まってんだろ！」 兄ちゃんが拳をテーブルに叩きつけた。でもじいちゃんはちっとも動じない。 俺は益々心臓がバクバクいう。呼吸も乱れてきた。 「サンジ、てめえモロッコ沖がどんな海か知ってんのか。あの辺りは今でも海賊の跋扈する凶悪な海だ。 そこでシャンクスが商売してるなら、海賊の荷をさばいているか・・・・・本物の海賊になっちまったかどっちかだ。」 「でも！姉ちゃんはこの期に及んでも、ヤソップ義兄さんに会いたがってる。口には出さねーけどな。 女房と子供置き去りにして、好きなことやってるなんて俺許せねえー、絶対探し出して、姉ちゃんの前で土下座させてやる。」 「偉そうなこと言うんじゃねえ、てめえも同じ穴のムジナだろうが。」 「クソジジイに言われたかねーや！コロコロ母親を変えられて俺達姉弟がどんな思いで育ったと・・・」 バシッ！ じいちゃんの平手が兄ちゃんの頬に飛んだ。すげえ音がした。チビの俺は思わず目を瞑ったほどだった。 「いてーな！クソジジイ！」 「何にしても、てめえに休みなんぞナメた話だ。確かに俺にもお前にもヤソップを責める資格は無え。 あるとすりゃ、そこにいるチビだけだ。」 じいちゃんは顎をしゃくった。その視線の先には俺がいた。兄ちゃんは驚いた顔でゆっくりと俺を振り返る。 じいちゃんだけは俺が覘いているのを気付いていたんだ。 「ウソップ、お前話聞いちまったのか？」 兄ちゃんは俺に近づいてきた。俺の目線に屈みこんで、俺の頬っぺたに手を伸ばしてきた。 「・・・・触んな！」 俺は兄ちゃんの手を振り払った。力いっぱい払いのけると、爪が兄ちゃんの手の甲に傷をつけた。 「・・・お前。」 兄ちゃんの手に赤い筋が伝う。料理人の兄ちゃんの手を俺は傷つけた。 「兄ちゃんのバカ！母ちゃんが死ぬ訳ねーだろう！父ちゃんだって、いつか俺達んとこに帰ってくるんだ。 父ちゃんは偉大な海の男だ。俺は父ちゃんを誇りに思ってる。土下座なんて俺がさせねえ！。うゥッ・・・！」 俺の両目からぼたぼたと涙が溢れてきた。そうなんだ、父ちゃんは勇敢な海の男なんだ。 そのことを俺は誇りに思ってる。母ちゃんだってそんな父ちゃんが好きなんだ。 だって母ちゃんは父ちゃんが突然姿を消しても、一度も父ちゃんをなじったり、恨んだりすることは無かった。 だから父ちゃんは悪くない。父ちゃんは俺達を捨てたわけじゃない。 「ウソップ、お前って奴は・・・」 兄ちゃんは俺の両肩に手を置いて、優しい目をした。 でも俺は、 「・・・兄ちゃんなんか嫌いだ！父ちゃんの事を悪く言う兄ちゃんなんてだいっ嫌いだ！ 兄ちゃんのオムレツはバターくさいし、俺の事怒ってばっかいるし、 参観日にはヨソのお母さんにいっぱい声かけるし、兄ちゃんなんて、兄ちゃんなんて・・・・ 俺は嫌いなんだからなあ！」 泣きじゃくる俺。困ったような兄ちゃん。 「サンジ、お前はウソップの兄でもなきゃ、父親でもねえ。そこんとこをわきまえるんだな。」 じいちゃんが後ろからボソッと言った。 兄ちゃんはそのまま手を伸ばして、俺をぎゅーっと抱きしめた。 俺は涙が止まらない。兄ちゃんのシャツに涙やら鼻水やらつけまくった。 兄ちゃんは屈んだまま、俺をいつまでも抱き締めて、一言言ったんだ。 「・・・お前、本当に嘘つきだなあ・・・」 うわーん！真夜中のキッチンで俺は兄ちゃんにしがみついて泣き続けた。 色んなことが頭をグルグル駆け回って、どうしたらいいのか判らなくて。 ただ大声を上げて泣くことしかできなかった。 「飲め。」 泣きじゃくる俺にじいちゃんが温かいココアを淹れてくれた。 じいちゃんが飲み物を作っているのなんてまるで気付かなかった。 テーブルの上にココアの湯気がぽあっと立って、いい匂いがした。 兄ちゃんは俺を抱き上げてテーブルに座らせた。 ココアを飲むと、急に眠くなってきて、あとの事は覚えてねえ。 でも朝起きると俺は兄ちゃんのベッドにいた。 兄ちゃんはとっくに朝の仕込みに出ていたけど、ふとんにはあったかい温もりが残っていた。 「なあ、兄ちゃん、死ぬってどういうことだ？」 「そうだなあ、遠くにいくって事かな。」 「ふーん・・・」 「遠くにいくけど、近くにいるって事かな。」 「なんだそりゃ、兄ちゃん頭悪ィなあ。」 「るせ、おりゃ高校中退だ。」 5月の風に湿った空気が混じる頃、白い箱を抱いた俺と、黒いリボンのついた写真を持った兄ちゃんは、 二人並んでそんな話をした。 俺達の頭の上を白い鳥が１羽きれいな線を描いて飛んでいった。 ３へ