５月の風

５月の風

その日は５月の風が吹いていた。
じいちゃんちの庭の木が、黄緑色の葉っぱをいっぱいつけて、
頭の上をすーっと気持ちいい風が吹きぬけていった。
空は青くて高くて、白い海鳥が店の上空をゆっくりと飛び立っていったのを覚えている。

「おらおら、いつまでも寝てんじゃねーぞ！クソっぱな。」

いつものように俺は兄ちゃんの怒鳴り声で、夢の世界から蹴り出される。
母ちゃんが亡くなってから、俺は兄ちゃんとじいちゃんの家に居候。
兄ちゃんはまるでこの家の主婦みてーだ。
毎朝俺を叩き起こしては、やれ朝飯食えとか今日は部活やんのかとか、
英語の予習は済んでんのかとかいちいちこうるさく世話を焼く。
俺もう、子供じゃねーっての！そりゃこの家に引き取られたときはまだチビのガキだったけどな。
今じゃ見事に成長して、ここいらの若者に俺様ほど完璧な青年はいないというもっぱらの噂だ。

兄ちゃんの用意する朝ごはんはめちゃくちゃ旨い。旨くて栄養も量も完璧だ。
ミシュランガイド隠れ記者の肩書きを持つ俺から言わせても、まあ相当イイせんをいってるだろう。
そんな兄ちゃんの朝食を眠気に勝てずに食い損なうなんて、勿体ねえ。
俺はベッドから起き出してもそもそと服を着始めた。
早く朝食のテーブルにつかねーと、又ルフィのアホが俺の代わりに全部食っちまう。
近所に住むルフィは俺と同じ中学に行ってるから、毎朝俺と一緒に登校すんだけど、

「おま！なんで俺んちで朝飯食ってやがんだ？」
「ああ、だってサンジのメシめちゃくちゃうめーんだもんよ、キシシ・・・・」
「・・・っておめえ、それ俺の朝飯だろうが！」

ってなことが何度も何度も何度もあった。

台所のテーブルには兄ちゃんが店の釜から出してきたばかりの、
焼きたてのクロワッサンが籐籠に入れられて、俺様に食べられるのを待っている。
上品なバターの香りで部屋がいっぱいだ。
今日はねぎとジャガイモのスープ、卵と生ハムのサラダ、それとミルクたっぷりのカフェオレ。
あとは食える限りのクロワッサンを全部腹に入れれば、一日のエネルギーは保障される。
カフェオレにクロワッサンを浸してがぶっとかぶりついた。

「おい、今日お前部活どうすんだって？」

せわしなく朝食を詰め込んでいるとと兄ちゃんが聞いてきた。

「今日は休む。だって母ちゃんの日だもんよ。」
「そっか、じゃ俺も店の休み時間に墓参りに行くから、向こうで落ち合うか。」
「おう！・・・兄ちゃん、小遣いくれ。」
「ああ？ナマ言ってんじゃねーぞ、支給日じゃねーだろが。
訳もなく金もらおうなんざ、この店じゃ１００年早いぜ、
ウラ！ゴタク言ってねーでとっととがっこ行って来い！」

兄ちゃんは俺のお尻を蹴り飛ばして玄関から追い出した。
やっぱだめか、前借は。
母ちゃんの花束、今年は４００円ので我慢してもらおう。
絵画コンクールの締め切りが近いから本当は部活も休みたくねーんだけど、
今日は兄ちゃんの車で帰ることになるから、キャンパスを持って帰ってうちで仕上げればいい。
蹴り出されて玄関の外で靴紐を結んだ。そこへ悪友がやって来る。

「うおッ？ウソップ、お前もう朝飯食っちまったのか！？」
「あったりめーだろ、うちのメシはお前のためにあるんじゃねーんだぞ。」

という言葉も空しい。
兄ちゃんが副料理長を務める店、バラティエで俺の悪友ルフィのあだ名は食い意地魔人。
タダめしタダ食いが大好きで、その胃袋は無限大、ゴムでできてるって噂もある。
悪友と二人朝の空気の中を駆け出した。
俺らの人生いつも全力疾走だぜ。要するに早い話が遅刻寸前だ。
５月の風に海の匂いが混じる。
海から山へと続く丘陵にはみかん畑の緑が延々と続く。
これが俺の生まれて育った町だ。
ピュルー・・・頭の上で海鳥が一声鳴いた。
一羽の白い鳥が、店の屋根にとまっていた。
うちの店は海好きのじいちゃんの趣味で、海岸沿いにへばりつくように建っている。
店にはオープンテラスがあって、海の上に浮かぶ形で食事ができるようになっていた。
だから人はこの店を海上レストランと呼ぶ。
じいちゃんも兄ちゃんも海が大好きで、テラスの横にはヨットハーバーまでついている。
小型船舶の免許を持つ兄ちゃんの船が係留してある。
店には、ときたまハーバーに船を寄せて、海からやって来る客もあるほどだ。
俺の父ちゃんもそんな海から来た客の一人だったらしい。
海から来て母ちゃんを見初めて、一緒んなってまた海へ出ていった。
今はどこにいるのか見当もつかねえ。
今日は母ちゃんが遠くに逝っちまった日だ。
父ちゃんは今でも母ちゃんがこの世にいないなんて、夢にも思わずに冒険の日々を過ごしているんだろうな。

午後の一時限目。
兄ちゃんの絶品弁当をたいらげた後の授業は正直言って眠すぎる。
隣の席のルフィはとっくに夢の中だ。
俺も眠かったけど、どうにか意識を保っていた。
だってよ、母ちゃんの命日に居眠りなんてしてみろよ。夢に出てきてどやされるぜ、母ちゃんに。
でも天気が良くてろくに授業なんか聞いてらんねー。ぼんやりするぐらい許してくれ。
窓際の俺の席からは、今日も海がよく見える。
さわやかな５月の風が吹く中、窓から見える海はきらきらと輝いていた。
あれから、もう４回目の５月。
きらきら光る海も緑のみかん畑も何も変わらねえ。
俺はでかくなって、ビビは女らしくなって、兄ちゃんは又一人になった・・・
変わったのは人間だけだな。
窓の外を海鳥が１羽飛んでいく。
海の蒼と空の青、みかん畑の緑、そして１羽の真っ白な海鳥。
ああ、今俺の手に絵筆があったら、母ちゃんに贈る最高の絵を描いてやれんのになあ。
母ちゃんとの思い出は所々鮮やかで、所々おぼろげで、繰り返し俺を１０歳のガキに引き戻す。

×××

「母ちゃん、今日な俺学校の帰りに見つけたんだ。
何って薬屋の看板さ。それに書いてあったんだぜ、この世のどんな病気も治せる薬、お売りしますって。」

その頃俺の母ちゃんは、ずっと入退院をくり返してて、俺はじいちゃんの家に預けられていた。
学校からまっすぐに母ちゃんの病院に向かい、バスに乗ってじいちゃんの家まで帰る。
じいちゃんの家には兄ちゃんや兄ちゃんのお嫁さんがいて、
俺にも良くしてくれたけど、みんな店が急がしくて、子供の相手なんか余りしてる暇がなかった。
俺はできる限り、病院にいて子供ながら母ちゃんの世話をしたり、話相手になったりしてたんだ。

「そうかい、そんな薬があるのかい、嬉しいねえ。」

母ちゃんはその頃にはもう顔色がとても悪くて、身体も痩せきっていたけど、俺が話をするととても嬉しそうに聞いてくれたんだ。

「兄ちゃんがな、父ちゃんはモロッコあたりにいるらしいって噂を聞いたんだって。
モロッコってな、不思議な薬がいっぱいあって、病気の人なんて一人もいないんだぜ。
きっと父ちゃんは母ちゃんの薬を持って帰ってくるんだ。だから母ちゃん、父ちゃんが帰るまでがんばんなきゃだめなんだからな。」
「そうだね、父ちゃんは立派な海の男だものね。もうすぐ帰ってくるんだもんね。」

母ちゃんは俺の嘘を聞いてニコニコ笑っていた。
父ちゃんはシャンクスっていう社長の下で海運業をやっていたけれど、派ぶりのいいときに突然この街から姿を消した。
失踪という奴だ。シャンクスは会社の幹部を連れて、何処へ行くとも告げずに、いきなり出ていったのだ。
街の人は口々にマチ金に借金があったんだとか、やばい仕事に手を出してその筋の連中に追われているとか、
色んなことを言っていた。
でも母ちゃんは俺に父ちゃんのことを話すとき、いつも「父ちゃんは立派な海の男」と言うのを忘れなかった。

「ういーっす、姉ちゃん、具合どうだ？」

兄ちゃんがでっかい重箱を持って母ちゃんの病室に入ってきた。

「ああ、サンジ、来てくれたの。今日はとても気分が良いんだよ、ウソップがいい話を聞かしてくれたから。」

兄ちゃんはどかどかと病室に入ってきて、ベッドの側の椅子にどかんと座り込んだ。
俺はもっとチビの頃から兄ちゃんが大好きだった。
兄ちゃんが持っている重箱の中身も大好きだった。
兄ちゃんは重箱の蓋を開けて母ちゃんの目の前に突き出した。

「ほらよ、姉ちゃん、バラティエ特製スタミナ弁当作ってきたぜ。もちろん俺とクソジジイのオリジナル。コレ食って元気だせや。」
「まあ、こんなにたくさん。ありがとう、サンジ。」
「なんたって病院のメシはまずいからなあ、食い物屋で育った人間には拷問だよな。」

兄ちゃんは煙草が吸えないイライラから長い脚をブラブラさせていた。
母ちゃんはそんな兄ちゃんをたしなめる。

「サンジ、そんなばちあたりな事を言うもんじゃないよ。折角コブラさんが手を尽くして、いい病院に入れて下さったんだから。」

ビビの父ちゃんコブラは地元の名士だ。義理の姉である母ちゃんのためにこの病院を世話してくれた。
義理の弟である兄ちゃんの店のことも何かと応援してくれている。
ビビを産んですぐ亡くなった自分の奥さんへのせめてもの供養なのだそうだ。

「ま、確かに看護婦さんは美人ばっかりだけどな。」
「これ、サンジ！」

アハハーと兄ちゃんは笑った。母ちゃんも笑っていた。俺も笑っていた。
兄ちゃんが女好きだってことはその頃の俺にはもう判っていたんだ。

「それで、サンジ、お父さんはいつ来れるかしら？」

お父さん、じいちゃんのことだ。

「ジジイは今俺と交代で店仕切ってるから、明日にでも来るよ。多分この時間だな。」
「早く、なるべく早く来てほしいの、お父さんにこの子のことをお願いしなくちゃ・・・」
「姉ちゃん、こいつの事なら心配いらねーよ、うちでたらふく旨いもん食ってるからよ、今は自分が元気になる事を考えなきゃ。」
「お父さんに、謝らなきゃ。私まで先にいくなんて、お父さんかわいそう過ぎる。だからサンジ・・・」

母ちゃんはやせ細った手を兄ちゃんに向かって差し出した。
兄ちゃんも弱々しい母ちゃんの手を優しく握り返す。

「姉ちゃん、大丈夫だから。な、気を楽にして。」

１０歳の俺には二人のやりとりが全部わかっていたわけじゃないけど、多分なんとなくは判っていたんだな。
くれぐれもこの子のことを頼むと懇願する母ちゃん、とにかくがんばれと母ちゃんを励ます兄ちゃん、そしてただ黙って見ていた俺。

「キーナさん、へそ。」

そのとき綺麗な看護婦さんが病室に入ってきた。いつも変な挨拶をする人なんだ。

「コニスさん、へそ。」

付き合ううちの母ちゃんも母ちゃんだけどな。
かわいい看護婦さんの登場にいきなり兄ちゃんの目がハートになる。

「いやあ！なんて美しい看護婦さんなんだ。あなたのような方にお世話して頂ける姉は幸せ者だ。
できることならこの僕も今すぐ入院したい！」
「あ、あのう・・・」

お下げ髪のかわいい看護婦さんはどう見ても困っていた。

兄ちゃんの目にはこの人の背中に羽が見えるらしい。

「そう僕は病気だ。君の視線で心に火傷を・・・！」
「・・・・兄ちゃん、おばちゃんに言いつけるぞ。」
「なんだ、ウソップ、お前いたのか。」
「いるに決まってんだろうが！」

「コニスさん、検温ですね。」
「ええ、キーナさん。はい体温計、えーっとこちらの方は弟さんですね？」
「僕はサンジ、キーナの弟です。レストランの副料理長をやっています。
ああ、白衣の天使とは正にあなたの為にある言葉だ。以後よろしく。」
「は、はい、では弟さん、あの、院長からお話がありますので、どうぞこちらへ。」

院長からお話という言葉を聞いてそれまでヘラヘラしていた兄ちゃんの態度がいっぺんに凍りついた。

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