いかないで
ぼくからはなれていかないで
いつまでもぼくだけのそばにいて
あなたがそばにいてくれるなら、ほかにはなにものぞまない





海上レストランの厨房で、サンジは受話器を取り上げた。
店の電話から、親友ナミの携帯番号をダイヤルする。
仕事中自分の携帯は手元に置いていないので、店の電話から外線発信した。
軽快な呼び出し音が途切れると、電話の向こうからけたたましい喧騒と共に親友の妻である親友の声が響いてきた。

「・・・もしもし？、サンジくん？」
「ああ、ナミさんいつも悪いね」

周囲が余りにも騒がしく電話の声はよく聞き取れない。

「いいのよ、特に変わったこともないわ、みんな楽しそうにやってるわよ」
「わりい、今年は３人も預けちまって」
「気にしないで、たくさんいた方が楽しいわよ、だって花火大会だもん」

盛夏の宵、レストランの厨房にも、湾上で打ち上げられる花火の音が聞こえてくる。
花火会場は人に埋め尽くされ、交通も制限されていた。
次々に打ち上げられる夜天の花に人々は目も心も奪われる。
バラティエの海上テラスは花火大会絶好のロケーションとして有名で、何ヶ月も前から予約で一杯だった。
たとえサンジが一児の父であろうとも、亡き長姉の子を養う叔父であろうとも、
子供たちを花火見物に連れていくなど到底不可能だ。
さらに今夜は義理の兄から姪のビビを預かっている。
サンジは毎年の事ながら、ゾロの一家に子供達を託し、花火見物に連れ出してもらっていた。
見物客の数は計り知れない。
この街の人口を倍以上回る人間が湾岸にひしめいているかのようだ。
臆病な割りに好奇心旺盛な次男、鉄砲玉お祭り男の長男に加え、夫は重篤な迷子癖。
そんな一家を連れて歩くだけで難儀であるのに、その上に三人も面倒見なければならないナミの苦労は察するに余りある。
とてもオレンジパフェとママレードマフィンだけで足りるとは思えない。

「俺も９時過ぎにはそっちに行けると思うんだけど」
「こっちは大丈夫よ、ルフィもウソップももう大きいんだし」
「・・・うん」

そのルフィとウソップが問題だったりする。
二人一緒だと何か悪さをやらかすのは明白だし、お嬢様であるビビに悪影響もあるのではないか。
三人とも昔から仲が良いのだが、いつまでも男女一緒に転げまわっていていいものだろうか。
取り越し苦労をしてしまうのは、子供を持ってからのサンジの癖だ。

「心配しないでしっかり稼いでらっしゃい、子供達預かるなんてどおったことないわ、
　いつもうちの子がそっちでご馳走になってることを思えば、安いもんだって」

ナミは母として年々強く雄々しくなっていくようにサンジには思えた。
その家庭環境を思えば彼女の強さもグレードアップしようというものだ。
ナミに任せておけば大丈夫。
サンジはひとまず安心して受話器を置いた。

最後のメインを出し終えると、サンジは花火会場に駆けつけた。





「サンジくん、ごめん！」

いきなり血相を変えたナミに迎えられる。
会場では終盤に入った大花火が色鮮やかに打ちあがり、ナミの平謝りの声もその轟音にかき消されてしまう。

「何？何かあった？」

会場に設置された露天でサンジはメンバーを確認した。
いの一番に自分の娘、カヤは？大丈夫、わた飴を片手にこの場にいる。
悪がき二人は？ウソップとルフィも珍しく確認された。
チョッパーは母の手をしっかりと握っていた。

「ビビちゃんがね、うちのチョッパーにりんご飴買ってくるって言ったきり戻ってこないの！」
「ええー？！」

よりによって一番しっかり者のビビが迷子か？
サンジは反射的に露天で縄に縛られたかのように、ビアジョッキに囲まれたゾロを睨みつけた。

「何でてめえが迷わねーで、ビビちゃんが迷子なんでえー？！」
「んな事言ってる場合か？」

そうだ、んな事言ってる場合じゃない。
ビビの父親、コブラ氏は東京に出張中、箱入り娘のビビにもしもの事があったら、憤死するに違いない。
周囲はウンカの如き人の群れ。
この中によからぬ事を考える輩もいるかもしれない。
いや、きっといる、いるに決まっている。
もしかしなくてもビビはかわいい、かわい過ぎる。
中１だというのに、大人びた表情、自然と磨かれた美貌。
鈴の鳴るような声に、ほっそりと均整のとれたスタイル。
夜闇に紛れてビビのかわいい浴衣姿に、クラリときて後ろからそっと声をかけ、
言葉巧みに薄暗がりに連れ込んで、、、、オーマイガッ！
サンジの妄想が炸裂。

「ウソップ！ルフィ！お前らがついていながらなんだ！ビビちゃんを一人にするなんて。
　男ならこの世の果てまでレディのエスコートに努めやがれ！」
「だってー、ビビ歩くの早えんだぜ。あっという間に見えなくなっちまって」

ウソップが口を尖らせた。

「ごめん、サンジくん、ビビに私の携帯持たせときゃ良かったわ」
「いや、ナミさんの責任じゃないよ」

たとえ何があってもサンジから見たナミに非は無い。

「・・・・あのな、探した方がいいと思うぞ」

チョッパーが母親のスカートにお尻だけ隠してオズオズと言った。

「そうだ、こんな事やってる場合じゃねーや、俺探してくるからみんなはここにいてくれ。
　ナミさん、ビビちゃんが戻ったら速攻で連絡よろしく！」
「ＯＫ、判ったわ」
「てめーら！俺が戻るまでここ動くんじゃねーぞ、
　勝手にうろつきやがった奴は、反行儀キックコースだからな！」
「却下」
「却下ってだめなほうだぞ！」

カヤの手をしっかりとナミに握らせ、ルフィとウソップにガンをくれるとサンジは人込みの中に駆け出した。

「えーと、りんご飴、りんご飴屋は、と」

サンジは群集を掻き分けながら、とりあえずりんご飴屋を探した。
その辺りのりんご飴屋にビビの姿は無かった。
あとはもう闇雲に走り回って、探す以外にない。
会場に放送をかけてもらうのは最後の手段だ。
ビビの今日の服装、藍地に水色の朝顔を染め抜いた浴衣を思い浮かべた。

ドンドン・・・ドン！

頭上で花火が炸裂する音がする。
大輪の花が夜空に打ち広がると、そこら中から歓声が沸きあがった。
だがサンジは夜空には目もくれず、ただ朝顔の浴衣だけを捜し求めた。
ウソップの言う通り、ビビは歩くのが早い。
その成長の速さと共に生き急いでいるようにさえ見える。

ビビちゃん、どこ行っちまったんだ？

花火の音、探し求める朝顔の浴衣、
走り抜けるサンジは突然の既視感にとらわれ、頭の奥がガンガンと痛んだ。
以前、これと同じ事があった気がする。
夜天彩る花火の下、必死であの人の姿を探した。

いかないで
ぼくからはなれていかないで
いつまでもぼくだけのそばにいて
あなたがそばにいてくれるなら、ほかにはなにものぞまない

周囲の空間が急激に現実感を失っていく。
必死でビビを探しながら、サンジは違うものを追っていた。
１０才の少年サンジがそこにいた。







「姉さん、ティティ姉さん、待ってよお、歩くの早いよ」
「早くいらっしゃい、今年一番の花火見損なっちゃうわよ」

母の死後、ゼフの元に引き取られたサンジは突然二人の姉を持った。
８つ年上の長姉キーナ、６つ年上のティティ。
店の事で忙しいゼフに代わり、サンジの面倒を見てくれたのはもっぱら二人の姉だった。
生まれて初めての花火大会に、サンジは次姉に付き添われてやってきた。
ゼフの家に来たばかりで、まだ姉達をきー姉ちゃん、ちー姉ちゃんと愛称で呼ぶことも無かった頃。
長姉キーナはその年新しくできたＢＦと花火見物。
初めての次姉と二人きりの外出、花火よりも浴衣の衿から覗く白いうなじに心が揺れた。

次姉との初対面、水色の太陽が輝いたような衝撃をサンジは一生忘れない。

『今日から私達、姉弟ね、どうぞよろしく』

差し出された右手は白く柔らかく、熔けるような笑顔がサンジを包み込んだ。
生まれて初めて感じた、胸に大きく疼く痛み。
その痛みの名を知るのに、長い時間はかからなかった。
自分達は義理の姉弟で、二人の間に血の繋がりが無いという事実は自然と察した。

次姉は時折サンジを振り返りながら、人込みの中を分け入っていく。
小さなサンジが少しでも花火を見やすい場所を探す為に。
金魚すくいの次はりんご飴、射的遊び、弟に花火大会を存分に楽しませる為に。
彼女は人込みの中を泳ぐように歩いた。
ついサンジは見失いそうになる。
藍染めに水色の朝顔をあしらった清楚な浴衣。
綺麗に結い上げられた水色の髪、浴衣の衿から覗く眩しいうなじと僅かなおくれ毛。

いかないで
ぼくからはなれていかないで
いつまでもぼくだけのそばにいて
あなたがそばにいてくれるなら、ほかにはなにものぞまない

父との生活は夢に見ていたような満たされた暮らしではなかった。
友達と遊ぶ時間もろくに与えられず、毎日厨房に籠もっては皿洗いに、野菜の皮むき、
ゴミ出しに鍋磨き、要する最低の雑用ばかりだ。
それでも弱音を吐かなかったのは、父の生み出す料理に魅せられていたのと、
長姉のぶっきらぼうな優しさ、初めて恋した次姉への想いを拭い去ることができなかったから。
次姉の傍で暮らせるのなら、料理修行も、自分の外見による偏見も少しも辛くはなかった。
いつまでも美しい姉、ティティと一緒にいたい。
少年サンジの胸を常に占めていたのは、そんな切なる想いだった。

人込みを走りぬけながら、サンジにあの頃の切ない想いが波のように押し寄せる。

好きだった　大好きだった　誰にも渡したくなかった。
いつまでも自分一人の姉でいてほしかった。
そんなサンジの切ない想いに気づくと、次姉はやがて自分と距離を置くようになった。
熔けるような微笑と、水色の太陽のような美しさは変わらずに。
どうして？どうして自分から離れていってしまうのか。
血が繋がらないとはいえ、姉弟だから？
６つも年が上だから？
そばにいてさえくれたなら他には何も望みはしなかったのに。
その問いに答えてくれる女は今はもう亡い。


「いかないで！」

思わず声に出し、見失いかけた次姉の浴衣の袖を掴んでいた。

「やあね、私はどこにもいかないわ」

そう言って微笑むと袖からサンジの腕を優しく引き抜いて、その手を握った。
どこまでもこの手を離したくなかった。
このままいつまでもこの手を握り、花火を仰いで二人で歩いていきたかった。

サンジが中学に入ると次姉はサンジとの距離を明確にした。
行動の中心はＧＦとのデートや更なる料理修行。
自分の道を模索するサンジを二人の姉は優しく見守った。

その年何人目かのＧＦと共にサンジは花火見物に繰り出していた。
懸命にＧＦを気遣いながら、打ち上がる花火に心を沸き立たせていた。
そしてサンジは見出した。
人込みの中に、水色の朝顔を。
藍染の浴衣は見つけたと思ったとたんに群集に消えた。
思わず彼女を追いかけてサンジは走り出していた。

いかないで
ぼくからはなれていかないで
いつまでもぼくだけのそばにいて
あなたがそばにいてくれるなら、ほかにはなにものぞまない

「ねえさ・・・あ、」

差し出した腕は、今度は袖を掴まずに宙に浮いた。
朝顔柄の浴衣の隣には、見知らぬ男が寄り添っていた。
あの時袖を掴んでいたら、彼女は今でも自分の傍にいてくれたのだろうか？

いかないで
ぼくからはなれていかないで

離れていったのは姉なのか、叶わぬ初恋と見切りをつけた自分なのか、
今ではもうわからない。



群衆の中に咲いた美しい朝顔。
輝く水色の太陽。
サンジは彼女を見出した。

「・・・ビビちゃん！」
「あ、お兄ちゃん」

振り返るのは熔けるような眩しい笑顔。
綺麗に結い上げられた水色の髪。
走り寄って、朝顔を染め抜いた袖を掴んだ。

いかないで
ぼくからはなれていかないで
いつまでもぼくだけのそばにいて
あなたがそばにいてくれるなら、ほかにはなにものぞまない

「良かった、私迷っちゃって・・・・・・・え？！」

袖を振りほどくと人目も憚らず、その場でビビを抱きしめていた。
初恋の人、次姉に生き写しのかわいい姪ビビ。
その幸福を自分の娘以上に望んでいた。
ビビは姉じゃない、
ティティ姉さんじゃないと自分に言い聞かせながら、小さなビビの頭を胸に抱え込む。
ビビは電流が流れたような衝撃で全身を貫かれ、身動き一つできなかった。
生まれて初めて感じる、胸に大きく疼く痛み。
金魚すくいの袋が手首を離れ、パシャンと音をたてて地面を濡らした。

「サンジお兄ちゃん」
「・・・」

大きく目を見開いたまま、サンジの腕に自分の身体を預けていた。
自分の肩に回されたサンジの腕、ビビはこの腕をずっと離してほしくないと心底願った。

いかないで
わたしからはなれていかないで
いつまでもわたしのそばにいて
あなたがそばにいてくれるなら、ほかにはなにものぞまない

抱きしめられて動けなくなってしまったのは、腕の強さのせいじゃない。
私をみつけたお兄ちゃんが、その時泣いているように見えたから。



「良かったわあ、ビビちゃん見つかって」
「いつまでやってんだ、エロコック」
「ええ？何？え？俺、何やってるって？あ！」
「サンジ兄ちゃん！」「エロ眉毛！」「？？？ドキドキ」「、、、パパぁ〜」

いつの間にかサンジは花火会場を一周し、ナミ達の元に戻ったビビに追いついていたのだった。
慌てて両手をビビの身体から離すと、サンジはしどろもどろの言い訳をまくしたてた。
傍らでは真っ赤なほうずきのようになったビビが、片袖で顔を隠した。
このあと彼は嫉妬に狂った悪ガキ二人のゴムゴム攻撃やら、タバスコ入りりんご飴やらをありったけ喰らうことになる。





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「しっかしサンジくんはビビちゃんには弱いわよね〜」
「ま、いいじゃん、今に始まったわけじゃなし、俺世界一のオジ馬鹿目指すんだ」

翌朝、バラティエのカウンター席でオレンジパフェをつつきながら、ナミは呆れ顔を隠さない。
カウンターの中でサンジの手から切り分けられる夏みかんのタルトを眺めていた。

「いっそのことお嫁さんにもらっちゃえば？」
「何言ってんだよ、叔父と姪だぜ」
「あら、血は繋がってないんでしょ」
「そりゃそうだけど」

花火大会の終焉は夏の終わりを告げる。
吹き抜ける潮風に名残を惜しみながら、ナミは小さな溜め息をついた。

（これじゃビビがお嫁に行くとき、サンジくんは大号泣だわ、
　相手は相当腕っ節の立つ男じゃないと、蹴り砕かれちゃうわね）



今朝がた、ナミだけが当人から告げられた。
あの花火のあと、ビビは自分の身体に紅い徴（しるし）を見たという。
小さな胸に咲いた恋の華火、切なく疼く痛みはその後も長く消えることはなかった。