彼女と彼
秋空の首都高速、ビビは新車のハンドルを握り、一路空港を目指していた。
大学の入学祝いに父が買ってくれた車は、所謂高級車と呼ばれる部類で高い安定性と、充分な加速性を持っている。
一見して学生が乗るには身分不相応な車だが、父の秘書的な仕事を努めるビビにとって、必要とされるグレードを維持していた。
シートはゆったりと運転者を包み込み、振動を余り感じさせない。
騒音は高速運転中でも最低限に抑えられ、静かな空間と好みの音楽をビビに提供してくれた。
長距離を運転しても疲れを覚えずに快適なドライビングを楽しむ事ができる。
風を切るのではなく、風に乗るような、運転感覚が気に入っていた。
免許を取って半年、ビビの運転技術も中々のものだ。
首都高のカーブをクリアしていく度に、街がその名を変えていく。
上京して半年以上経ち、今では東京の地名も地図上の感覚ではなく、自分の生活に密着したものになった。
キャンパスのある街、友人と買い物に行く街、父の事務所がある街、本を探しに行く街、
ウソップの下宿がある街、
その全てが愛車の窓から後ろに流れ去っていく。
生活圏である東京を抜け出し、ビビはひたすらに郊外を目指した。
最悪の気分と共に。
「うわーん、気持ち悪ーい！誰か何とかして」
誰も何とかしてあげることはできない。。
ビビは後部座席にたっぷりと食べ物を積み込み、これから空港へルフィを迎えに行くのだ。
大好きなルフィが久しぶりに日本に帰ってくる。
連絡を受けたとたん、ビビは車のキーを掴んでいた。
首都高から空港に向かう道筋を考えると、高速を下りずに成田に入った方がいい。
途中で下りて食料を買い込むのは、時間のロスだ。
１分でも１秒でも早く彼の顔を見たい。
ビビはガレージから車を出すと、近くのスーパーですぐに食べられる肉という肉を買い占めた。
○ンタッキーフライドチキンもバーレルでいくつも買い込んだ。
どうせルフィはいつ帰ってきても常に腹を減らしている。
空港レストランで優雅にお食事などできる男ではないし、メニューを見てから注文している間に、メニューを食いかねない。
誰もが羨む最新の高級車は、肉の匂いと香辛料の匂いでいっぱいだ。
いかにビビの車が居住性に優れていても、この充満した匂いの中での高速運転は、内臓にかなりな負担だ。
かといって首都高速上で車の窓を開けるなど、ハイブリッドカーを乗り回すビビには言語同断だ。
うっかり空気を大量に吸い込むと、たまらず胸にこみ上げてくるものがある。
運転中の目が涙目になった。
きっと服にも髪にも肉の匂いが染み付いてしまっているだろう。
当然シートにもついているわけだから、帰ったら洗車とファブリーズの嵐だ。
「又イガラムに怒られちゃうわ、どうしよう？」
運転中独り言を呟くのは、ビビの癖。
「・・・ウソップにも怒られちゃうなあ」
『だから、あんな奴相手にすんなって言っただろ！！』
自分を叱咤する従兄の顔が頭に浮かんだ。
ビビの上京後、ウソップも美大に受かり、故郷を離れて東京で一人暮らしを始めた。
上京当初こそよく会ってはいたものの、
最近ではお互い自分の学生生活が忙しくなり、訪ね合う機会が少なくなった。
『ルフィさんがね・・・』
彼の話題を始めると、ウソップは口を開かなくなる。
ビビの屋敷にルフィが来ていると聞くと、ウソップは寄り付かない。
自分とルフィとの距離が縮まると、ウソップとルフィの距離が開く。
ビビと従兄弟のウソップ、その親友ルフィは、物心ついた頃からの遊び仲間だ。
幼馴染でずっと三人で転げまわっていただけに、ビビはその距離が悲しかった。
自分とルフィとの事を、ウソップは容易に認めたがらない。
最近ウソップが自分に対して余所余所しい、
慣れない都会の暮らしで唯一頼れる親戚なのだから、屋敷にもこれまでどおり遊びにきてほしい。
そんな気持ちを父に伝えても、父は笑って言うだけだった。
『ビビ、今ウソップは一人になってやっと自分と向き合っているんだよ。
自分の創作と正面から向き合っているんだ。
彼が素晴らしい芸術家になる為に、今は見守ってあげるべきじゃないかね。
心配することはない、男の子なんだから』
自分との恋仲を認めたがらない、ウソップの気持ちもあながち判らないではない。
高校卒業後、フラリと海外に行っては、突然戻ってくる、そんな男に振り回されるビビを心配してのことだ。
『あんな奴と付き合ってるとな、絶対お前苦労すんぞ。
昔は俺もつるんで遊んでたけどな、一緒にいるとあんなハタ迷惑な奴、他にいねーって』
「だってー・・・ほっとけないのよね」
ルフィという強力な引力にビビはもう引かれてしまっている。
彼の太陽のような笑顔を思い出すだけで、自分の中にいるもう一人の、女としての自分に気づかされた。
胸に宿る熱い思いが身体全体を包み込み、幸せな温かさに包まれた。
たとえ、彼がそばにいなくても。
「私、これでも恋してる、のよね？」
大学のキャンパスで交わされる華やかな恋の駆け引きも、心騒ぐときめきもない。
これまで人を好きになる事は、辛いものだと思っていた。
どこまでも行ってもたどり着けない、切ない迷路の中を右往左往するもの。
ルフィとの付き合いはビビがこれまで積み重ねてきた恋愛感を、根底から突き崩した。
ルフィさんが好き、傍にいられなくても構わない。
ただ彼がこの世界に在ること、自分が同じ世界に共に在ることが、これ以上無いほどに幸せに思えた。
もちろんそんな心の境地に至るまでは、それなりに葛藤もあった。
どうして彼は自分のそばにいてくれないのだろう？
どうしてすぐに何処かに行ってしまうのだろう？
『ねえ、どうして？』
問いかけたい時に限って携帯が鳴り、明るく元気な声が響く。
責めたい時に限ってフラリと戻ってきて、あの太陽の笑顔でビビを抱きしめた。
ビビは恋人に恨み言の一つも言うことができない。
帰国したルフィのシャツからは、色々な匂いがした。
土の匂い、海の匂い、花の匂い、キナ臭い匂い。
大学で必死に勉強を続ける自分よりも、広い世界を彼は知っている。
「会えなくても平気だもん」
ビビは車の中でおまじないのように、一人口に出した。
滅多に会えないことは平気でも、車の中に充満する食肉の匂いは平気じゃない。
果たして恋する女の子の髪や服に、肉の匂いが染み付いているものなのか、どうか。
考え込むと匂いに意識がいってしまうので、ビビはあえて考えないことにした。
首都圏を抜け、視界が郊外に開けていった。
人工の建造物よりも、自然の緑や畑の景色が多くなる。
もうすぐ、彼に会える。
「ルフィさん、ルフィさん、起きて」
感動の再会はいつも決まったシナリオで始まる。
「おお？ビビか、久しぶりだな」
「本当に久しぶりね、・・・ねえ、前も言ったでしょ、空港の床で寝ないでって」
「うお？俺寝てたか？」
ビビはルフィの腕を引っ張り上げて寝転んだ彼を起こそうとした。
上半身が起き上がり、やっとまともに覚醒したのか、ルフィの黒い眼にしっかりとビビが映った。
「ビビ！会いたかったぞ！」
「え？きゃあ」
引っ張り上げた片手を逆に掴まれて引き戻され、ビビの細い腰にルフィの腕が巻きつく。
ビビは空港ロビーに膝立ちで座りこんだまま、ルフィにきつく抱きしめられた。
周囲の視線が気になったが、ここは空港、そこら中でハグやキスはよく見かけるシーンだ。
・・・だと思う、多分そうだと思う。きっとそうだ。そうに違いない。
「ルフィさん、お帰りなさい！」
何よりも自分の胸に顔を埋めて幸せそうなルフィを見ていると、周囲の視線などどうでもよくなってしまう。
ビビはルフィの頭を胸に抱え込んだ。こぼれそうな幸せが満ちてくる。
「ルフィさん、・・・ルフィさん！」
「ビビ！」
空港ロビーの真ん中で、座り込んだまま、絡み合う若いカップルに目を留める者は誰もいない。
人々は忙しそうに、荷物用のカートを押し、スーツケースを転がして、二人の側を通り過ぎていった。
さあ、ルフィを連れてまずどこへ向かおうか。
まっすぐ自宅に連れ帰れば、きっと彼はぐっすり客間で眠ってしまって、２日や３日では起きてこないだろう。
海外から戻ったばかりのルフィを余りつれ回すわけにはいかないし、久しぶりに会えた二人に、都会の喧騒はわずらわしい。
ビビは考えをめぐらしながら、再び高速上でハンドルを握る。
今度は一人ぼっちのドライブではなく、薄汚れたバッグパッカーと二人連れ。
助手席のバッグパッカーはただひたすらに、後部座席に山と積まれたお肉と格闘中。
往きはビビを悩ませていた、肉臭が次々にルフィのお腹に消えていく。
時々うめえ、うめえとわめく以外は、もごもごと言葉にならない台詞を吐き出す。
どうにかこうにか判別すると、ビビ元気か？とか、冒険は楽しいぞー！とか言ってるように聞こえる。
肉に噛り付くルフィの顔を、運転姿勢で横目に見ると、自然と口元に笑みが漏れた。
フロントガラスの向こうに見る空が、往路と全く違った色に見えた気がした。
「ルフィさん、おいしい？」
「おう！うめえぞ、ビビ。いつもビビが買ってくる肉は格別だな」
「そう？バラティエのお料理には遠く及ばないわ」
二人は落ち着いた会話を繰り返す。
久しぶりに会えた感激だの、熱烈な愛の言葉だのを、わざわざ口にする必要は無かった。
二人が幼馴染であるせいでもあるだろう。
まるで昨夜駅前で別れた、普通のカップルと何一つ変わらず、自然で気負った所のない二人の関係。
今回の旅は約４ヶ月、これが一年や２年だったらどうなるのだろう。
彼の事だから、いずれ何年も帰らないような大冒険に出てしまうに違いない。
従兄ウソップの父親のように、フラリとどこかへ行って、何年も音沙汰がない、そんな将来もあながちただの杞憂では無さそうだ。
普通の女性なら、耐えられる生活とは思えない。
だがビビはただの女子大生ではなく、意志の強さ、頑固さはそこらの男共など足元にも及ばない。
そして、死の間際まで帰らぬ夫を慈しみ続けた、ウソップの母の事をよく覚えていた。
しばらく会えなくてもいい、いつか自分の所に帰ってきてくれさえすればそれでいい。
自分以外の誰がこんな恋愛に、我慢できる者がいるだろう。
ビビは幼い頃から始まる、ルフィとの縁を不思議に思った。
ビビはルフィがあらかたの肉を片付けた事を見届けてから話しかけた。
「ところでルフィさん、今まで一体どこにいたの？」
実はビビはルフィがどこから帰ってきたのかも知らない。
「メヒコ」
「メヒコ？ああ、メキシコのことね。現地ではそう発音するのよね」
ろくに言葉も通じない国で、ルフィが身振り手振りで現地の人とやりとりする場面が想像できた。
自分にはきっと真似できないだろう。
見も知らぬ国にたった一人、背中のリュック一つで飛び込んで、アルバイトをしながら旅をする。
自分が男に生まれていたなら、そんな生き方をしてみたいと思ったかもしれないが、女の身ではちょっと遠慮したい。
でもルフィの身体に残された異国の香りには、胸をかきむしられるような、憧れを感じる。
自分の持っていないものをルフィはたくさん持っている。
彼女が彼を愛したのは、彼のそんな自由な生き方。
だから彼が自分の意志を曲げて、父の組織に組入れられたりするのは、耐えられない。
ルフィがルフィでいてくれてこそ、自分が愛するだけの価値がある。
側にいてくれないと彼を責めるのは、そうした自分の信念に矛盾した行いだ。
ビビは彼を想うことで、確実に強くなっていった。
「ルフィさん、どこか行きたい所ある？」
「そうだな、どっか水のあるトコ行きてーな。ずっと埃っぽいトコにいたからな」
「そうよね、乾燥気候ですもんね」
「お！そだ、海に行きてー！」
海か、それもいいかもしれない。
二人は海の街で生まれ育った。
都会の海は故郷のそれとは全く違い、人工的で作られたもの、という印象が強い。
それでも今の二人に何か潤すものを与えてくれそうな気がする。
そんな事を突然思いつくルフィが、頼もしく、愛おしい。
しかし当節流行の○台場海浜公園などに、この薄汚れたバックパッカーを連れて行くのは忍びない。
ビビは頭の中に、余り人気の無い、静かな海をナビゲートしてみた。
「OK！任せて」
目的地をイメージすると、高速の出口を求めて車線を変えた。
首都高速の高架上に、夕暮れの太陽がポカリと残った。
ビビは首都高速を銀座で下りた。
そこから街中には向かわず、晴海通りを左折、築地から勝ちどき橋を渡ると、ビルの林がいきなり住宅街に姿を変えた。
住宅街を抜けて、やがて人の姿はまばらになる。
年季の入った街路樹が紅い葉をいくつも揺らして、二人の車を出迎えた。
窓から懐かしい海風の匂いが入ってくる。
物心ついた頃から、ルフィとビビの身体を取り巻いていた、優しい空気だ。
大気に混じる排気ガスの匂いを差し引くと、紛れも無い、二人の故郷の香り。
これ以上西には道が無い。この先は隅田川と合流した東京湾。
ビビは建物に車を寄せて、駐車した。
「海かー？着いたなあ」
停まるなり車を飛び出して、ルフィは大きく身体を伸ばした。
ビビも続いて、車を下りて、キーをかける。
二人で都会の海の空気を身体いっぱいに吸い込んだ。
いつも離れている二人だから、同じ空気を吸っているだけで、世界が明るく輝いていく。
西の空に日が落ちて、湾岸は黄昏色に包まれた。
とても幸せで、とても大切な時間。
「ここは何処だ？ビビ」
「晴海、国際港よ、ここからなら家に帰るのもすぐだし、パパのオフィスも近いわ。
余りうるさい所は嫌でしょう？」
「おお、だけど、ちっとも人がいねえな。本当にここ東京かあ？」
国際展示場が移転してから、晴海港を利用する人は外国航路の乗客か、港湾関係者のみだ。
人によっては打ち捨てられたゴーストタウンのようにも見える。
だが国際港としての機能は変わらないので、ターミナルショップは閉鎖されていても、
綺麗にデザインされたモザイク状のロビーは常に整備されている。
れっきとした海外への出入り口なのだ。
ルフィの手を握り、待合ターミナルへ導いた。
ここからは東京湾が一望できる。
小さな観光船や作業船が湾内をいくつも行き来していた。
隅田川の対岸に見えるオフィス街に灯りが点り、もうじき夜景を彩る時間だ。
黄昏色の空にレインボーブリッジが架かり、ライトアップを始めた。
港には海外の豪華客船が寄港し、世界で最も優美な姿と謳われるその船体を海に浮かべていた。
「すっげえー！綺麗な船だな」
「イギリスの豪華客船よ。世界中のお金持ちが、世界一周の旅の途中で寄港してるんだわ」
「タイタニックみてーだな」
「本当ね」
白く輝く船体はヨーロッパの豪華な城を思わせた。
一体いくつ船室があるのか、窓の数だけでも数えようがない。
上品な制服を着たクルーが忙しそうに立ち働き、出港準備に追われていた。
最上階にある広い船室は、シャンデリアの灯りが光り、ビロードのカーテンに隠されている。
この船で最も格調の高い、イベントホールのようだった。
巨大なシャンデリアの光はビビでさえ見たことの無い、豪奢な輝きだ。
二人共、目を丸くして、豪華客船を見上げた。
きっとこのホールで、内外の紳士淑女達が、夢のようなパーティを毎夜繰り広げているのだろう。
「乗ってみてーなあ」
「うん」
二人はしばらく言葉を失った。
じっと船体を見上げるルフィの横顔が、ビビの瞳に突き刺さった。
彼は時々、こんな風に表情の読めない顔をする。
何かをぐっと奥に秘め、何かを燃え上がらせようとする、炎の瞳。
子供のようでいて、誰よりも歳月を経たように思わせる、静かで力強い眼差し。
『こんな眼をする人を、私は他に知らない』
彼は何を考えているのか、静かにふつふつと燻る熾き火のように全身から闘志を立ち上らせる。
じっと見ていれば温かく、触れれば一度に肌を焼く、危険で力強い熱。
「ビビ、俺の母ちゃんな、こんな船の航海士になりたかったんだと」
「え？ナミさんが、航海士に？」
ルフィの母が幼い頃から、海好きであったことは知っていたが、航海士を目指していたとは初耳だ。
ビビの知るナミは、有能な海事代理士であり、三人の子供を育てあげた気風のいい、剣道場の女将さんという印象で、
目の前にある豪華客船のクルーとは今ひとつ結びつかないような気がした。
海外で一人仕事をするよりも、ロロノア道場の伝統を守り、夫や子供を叱咤し、夫の両親を立てて忙しく毎日を送る。
そんな女性だと思っていた。ルフィを育てた彼女に孤独は似合わない。
「けどな、俺が腹に出来たから、その夢はチャラにして、別の夢を追っかけたんだと」
「そうだったんだ」
ナミの描いた別の夢、それが何か、今のビビには理解できる。
家族と共に生きる事。お腹に宿った命を慈しんで、雄雄しく生きていくこと。
それも、ナミにふさわしい、ルフィの母にふさわしい生き方だ。
ルフィを産んで夢を諦めたこと、彼女は決して後悔してはいないだろう。
今、自分の横にいるルフィの自由奔放さが、それを教えてくれる。
後悔しているのなら、ルフィに出生にまつわる話をするわけがない。
ナミの強さと愛情深さはビビにとって、理想の女性像そのものだ。
港が夕闇に包まれると、船は出港準備ができたと見えて、船腹からバラスト水を吐き出し、もやいを緩め始めた。
出港を合図する銅鑼が鳴り、僅かな見送りの人々が、客達にいっせいに手を振る。
見送りの人と船を繋ぐカラフルなテープが海風に踊る。
ルフィはその様子をじっと見つめていた。
「よし！この船乗るぞ」
「む、無理よ、税関あるのよ！」
「税関？ならもう通ってきたぞ」
「だから、この船に乗るのも、飛行機に乗るのと、同じ事なのよ。
パスポートも要るし、ビザだって要るわ。第一どこに船出するか、判らないでしょ！」
「どこに行くか、わかんねーのはいつもの事だ。んじゃ、ビビお袋によろしく言っといてくれ」
「ちょっとルフィさん！」
夢中でルフィのシャツを引っ張ったが、遅かった。
ルフィは待合ターミナル広場から客船のもやいに飛び移り、するすると登り始めた。
当然、港湾警察官や税関職員が彼の無謀を放っておくわけも無く、非常警戒態勢がルフィに向かって敷かれた。
海外航路の豪華客船は動く異国だ。船内は英語で治外法権、日本と全く異なる世界。
空港と違い、日本と船を隔てる物は、低い柵があるだけ。
ついさっきメキシコから帰ったばかりのルフィは、柵一つ越えて、外国に行ってしまった。
「・・・ルフィさん」
呆れた事に警官に追われるのは、慣れっこのルフィ。
もやい綱を伝って甲板上に降り立つと、縦横無尽に船内を駆け回る。
船出したばかりの世界一の優雅な豪華客船はいきなり騒然と、蜂の巣をつついたような騒ぎになった。
もっとも上客として乗りこんいる紳士淑女は船内のゴタゴタに向ける視線など、持ち合わせていない。
テロリストだろうが、密航者だろうが、自分の命と財産をおびやかされる事が無ければ、知ったことではないのだ。
優秀なクルーが完璧に処理するだろう、それよりも自室のお茶が冷める方が大問題だ。
あっと言う間にルフィの姿が、甲板上から消えて無くなった。
時折船室の窓からキョロキョロと顔を覗かせては、警官に追われて逃げていく。
きっとこの後はあちこちの船室に潜り込んで、洋上に出るのを待ち、次の寄港地で強制送還されるまで、船で雑用などをこなして
糊口を凌ぐのだろう。
強制送還と聞けば、次の寄港地で一体何の手品を使うのか、又そこからトンズラしてしまう事もある。
実はルフィのパスポートは偽造パスポート。
度重なるオーバーステイで、出国できなくなっているのだ。
それでも彼は日本でおとなしくしているのような、玉ではなく、昔の知り合いに手を回して偽造パスポートを手に入れた。
そうまでして、冒険したがる彼をビビが止めることなど出来るわけがない。
ある意味、彼は社会のはみ出し者で法律違反者、アウトロー、要するに現行犯だ。
だからこそ従姉妹思いのウソップは、ビビの将来を心配する。
「しょうがないわね、ルフィさんたら」
ビビは再会の喜びからいきなり別れの場面になってしまって、もう怒るとか、悲しむとかを通り越し、呆れてしまっている。
止めて止まる男なら、とっくにそうしているし、ここまで愛情を覚えたりはしない。
「ビビーーー！！！元気でいろよーーー！！！」
出港の汽笛に紛れて、船内のどこからか、自分を呼ぶルフィの声が聞こえる。
彼は行ってしまった。こんなにもあっさりと。
けれどビビの手に残ったルフィのぬくもりは、いつまでも残り続け、夜の海風に晒される小さな身体を暖めてくれた。
これ以上ここに留まっていれば、自分も職務質問でも受けてしまうかもしれない。
ビビは辺りを見回すとまだ自分が、ルフィの知人だと悟られない内に、そっとロビーを抜け出て、愛車の元に駆けつけた。
ビビの車はキーレスエントリー、即座に乗り込んでエンジンをかけた。
湾内からまだ船が見えている内に、ビビはルフィに別れを告げて、一気にスピードを上げる。
シフトレバーを握る左手が微かに震え、心臓が高鳴った。
港から市街地までの直線を、レッドスピードで駆け抜け、大胆な弧を描いて、コーナーをクリアする。
もし捕まったら、父も自分もただではすまない。地位も仕事も権力も、今持っている全てを一度に失うだろう。
なのに、ビビの口元には笑みが浮かんでいた。
ルフィと一緒にいる事で時折味わうサスペンス、一か八かのジェットコースターに乗ったような感覚を、ビビは実は楽しんでいた。
ルフィのいない東京に、すっかり夜が降り立った。
街の灯が車の窓から帯のように、線を引いていくつも流れていく。
この夜景をルフィと一緒に見る事ができなかったのが、少し残念だ。
今夜はルフィと食事が出来ると楽しみにしていた父は、多少なりともがっかりするだろう。
だが彼はこういう人なのだという事も、よく理解してもらわなければならない。
ハンドルを握り、夜の都会を走りぬけるビビは、いつしか流行の歌を口ずさんでいた。
会えなくても満足していられるなんて、自分は少しおかしいのかも？
そんな自分を正直かわいいと思っている。
こんな恋愛はそうそう誰にでも、出来るものじゃない。
ビビちゃん大学一年生の秋でございます。
まったく、とんでもないルフィ青年ですが、彼ってこんな人だと思うんですけど？
自分だったらこんな奴、旦那どころか彼氏でもごめんじゃ。
2005.11.19 ゆう
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