いちばん好きな人
「結婚するの」
その一言を告げた時、頭から異を唱えたのは、彼女の身内では故郷の叔父だけだった。
久しぶりの帰郷、女子高時代と同じように、店の休憩時間を選んで叔父を訪ねた。
自分の幸せを一番望んでくれている叔父は、彼女の結婚話に顔を曇らせ、眉をひそめる。
東京で議員生活に勤しむ父は、夫となる人の人間性に惚れこみ、
娘との交際を暖かく見守っていた。
故郷の市長を長く勤め、自治体始まって以来の好支持と善政で知られた父。
そんな父は、家柄とか、学歴とか、自分の立場とかそんなものに一切拘らず、
娘の心だけを尊重すべきだと考えてくれた。
恐らく彼と結婚すれば、一般的な女の幸せとは無縁の人生を送るだろう。
ビビはそれでも構わない、自分には家庭生活以外にやる事があるし、
彼にはこれまでのように風来坊で生きてくれた方が、彼らしくて嬉しい。
生活の基礎を自称冒険家の彼に求める事は、目の大きなざるに水を溜め込むようなものだと思っていた。
それよりも、自分が彼と結婚したいと思った理由は、
『ルフィさんの子供を産みたい』
その一意に尽きた。
世界中を飛び回り、地球の全部を見てやるんだと息巻いている彼。
これと言って定職にもつかず、実家の剣術道場には、ほとんど帰らず仕舞い。
それでも天性の明るさの為か、言っても無駄と周囲が諦めているせいか、
誰からも非難されず、好きなように生きている。
ただいるだけで全てを照らす太陽のような人。
事実、ルフィが不在でも、彼の事を考えると寂しさよりも、愛おしさが先に立った。
胸に宿った陽だまりのような温かさは、幼馴染の恋人、ルフィがくれたものだ。
一時は、ちっとも傍にいてくれない恋人を恨んだ頃もあった。
周りの友人達は、いつも恋人と楽しい時間を過ごしていたから。
ある時期を過ぎると、ビビは離れている時ほどルフィの存在を身近に感じるようになった。
それほど自分はルフィに愛されているのだ、それほど強くルフィを愛しているのだ、と。
自分に誇らしく思えるようになった。
彼のような人は世界に二人といない。
世界でたった一人の、太陽のような男性に自分は選ばれ、自分も彼を選んだのだ。
あの人の子供を、私のお腹から産み出したい。
太陽の子を産みたい。
そして世界を飛び回る彼の還れる場所に、自分がなれたなら、
自分の人生に悔いは無い。
そう思っていたから、誰よりも親愛を寄せる叔父が困惑した顔を見せたのは、ビビには意外だった。
サンジのそんな反応は、ごく一般的で常識的な判断に違いないのだが。
「ビビちゃん、ほんとにいいのかい？
あいつじゃなくたって、ビビちゃんなら他にいくらでもいい男がいるだろう」
「私にはルフィさんしかいないわ、お兄ちゃんだって彼の事は大好きでしょう？」
久しぶりの帰郷を叔父は大喜びで迎えてくれたが、切り出した話題がいささか重かった。
真剣に語るビビの顔を真っ直ぐ見ようとはせず、カウンター内で手元のグラスを洗ったり、拭いたりしている。
自分の結婚話は、サンジにとって愉快な話題ではないらしい。
そんなサンジに気を良くする程、ビビは子供ではなかったし、今更期待もしていなかった。
バラティエは、昼の休憩時間。
他のコック達はみな息抜きに出払っている。
フロアに残り、カウンターでかたづけをしているのはサンジだけだ。
子供の頃から、叔父はカウンターで美味しい飲み物や、夢のようなおやつを振る舞ってくれた。
カウンター越しにサンジに悩みを打ち明けたり、窓から見える内海を見るのが好きだった。
この店でサンジが作り出す、優しい空気が大好きだった。
「そりゃルフィは、男気のある奴だけど、俺はビビちゃんの結婚相手として勧めらんねーな。
そこらへん、ナミさん達がどう考えてるかわかんねーんだけど」
「ゾロさんは絶句してたし、ナミさんは大笑いしてた・・・」
なるほどね、とサンジはグラスを洗って水切りする。
夫となる人の両親、未来の舅と姑は、目の前にいる叔父の古くからの親友だ。
彼ら夫婦はルフィの事を、「もう手を離れていった息子」と思っている。
最終的な責任だけは取るが、あとは本人の人生だ。
好きに生きればよい、と。
ゾロとナミの間に生まれたからこそ、ルフィは太陽のように育ったのだとビビは信じている。
「ルフィさんは、長男だけど私と違って三人兄妹よ。
チョッパーもアイサちゃんもいるし、彼にはお家の道場を継ぐ意思は無いわ。
彼がお婿さんとして私の籍に入るのは、何も問題無いって、ナミさんは言ってくれるの」
そりゃ、莫大な資産が、と叔父がグラスを拭きながら口ごもったのをビビは見逃さなかった。
「まあな、入り婿してくれるって条件にゃ、コブラ義兄はメロメロだろうけどね」
母を亡くして以来、父は政治家として不利であろうとも、絶対に再婚しようとしなかった。
ビビの気持ちを考えてというよりも、父自身がもう他の女性と生きる意志を無くしていた。
だからこそビビは、広い屋敷で一人娘として、溢れんばかりの愛情を受けて育った。
「ルフィとの結婚は、君と義兄さんのこれからの活動に良い結果はもたらさない。
むしろ悪影響ばかりだ、それは承知の上なんだね」
「もちろんだわ、父の地盤は私が受け継ぐし、それはルフィさんには関係の無い事だもの。
彼は結婚しても私達の政治活動とは無縁の生活を送ってほしいの」
「・・・うーんむ・・・」
人の役に立つ仕事をしたいと、大学に通いながら父の秘書を勤め、永田町の最高位に照準を定めた。
そんな自分と結婚しようという、勇気のある者はこの先彼以外誰もいないかもしれない。
「お兄ちゃん、私、お兄ちゃんに賛成してもらえなくちゃ、結婚できないわ」
初恋の人、自分の少女時代を愛情で彩ってくれた最愛の叔父。
血の繋がらない叔父との未来を、本気で夢見た事すらあった。
母の弟サンジは、早世した姉との時間を取り戻すかのように、自分に優しくしてくれた。
ビビはカウンターで水仕事に打ち込む振りをするサンジを、じっと見つめた。
見れば見るほど初恋の人は、今の恋人と全く違うタイプの男性だった。
ルフィと付き合っていても、絶えずサンジへの思いは胸のどこかに燻っていた。
それは愛情と呼べるような確としたものではなく、普段は忘れている程の漠としたものだ。
ビビの初恋はそのまま郷愁に繋がるので、故郷を思う時サンジを思う。
サンジを思う時、故郷を思う。
東京で勉強や政治活動、新しい人間関係、そんなものにフッと疲れを覚えた時、
叔父への思慕は蘇る。
サンジへの感情は、決して恋人を裏切るような意味合いを持ってはいない。
物心ついた頃から、身の内に宿る思慕の情は、既にビビの身体の一部、
人間としてビビを形作るのに、どうしても必要なものだった。
大人への扉に手をかけた時、どうあっても叔父と姪以外の関係にはなれない事を知った。
その時ビビの傍にいたのは、兄弟のように育った従兄弟と、その親友ルフィ。
(あの時、ウソップは黙って私の気持ちを聞いてくれた。
ルフィさんは好きな奴はずーっと好きなままでいいんだって言ってくれた)
二人にどれほど救われたか、判らない。
二人がいなければ、失恋の痛手から立ち直れなかったかもしれない。
黙々と作業する叔父から視線を外し、ビビの目は窓から見える海に吸い込まれた。
海上テラスの向こうに光る白銀の波。
この海こそが、自分の故郷だった。
東に広がる砂浜で、スコップを片手に砂山を作る母子がいる。
夢中で砂を掘る小さな男の子。
微笑んで見守る若い母親。
（かわいい、私達もあんな風だったのよね）
いつも浜で遊び転げた、小さなビビと嘘つきなウソップ、泳げないのに海好きなルフィ。
妹のような金髪の女の子カヤ。
そして自分を見守る優しくて恋しい人、サンジ。
（私達、何て大きくなってしまったのかしら。
何て早く大人になってしまったのかしら。
この海を離れて、私は何て遠くに行ってしまったんだろう。
世界中で、この街ほど私が愛してる土地は無いのに）
「浜に下りようか、ビビちゃん」
突然仕事の手を止めて、サンジが告げた。
サンジにエスコートされて、浜への階段を降り立った。
柔らかく手を握り、心を配る様子はビビが小さな頃から少しも変わらない。
「うーん、やっぱりいいなあ、この潮風」
「東京にも海はあるけど、あっちの海は人口っぽくて、匂いが違うよな」
背伸びして故郷の潮風を身体いっぱいに吸い込んだ。
この身体には既に東京の空気が、染み込んでいるのに、故郷の風はそれを許してくれる。
頬に当たる風が柔らかく、長い髪をすり抜けていく。
故郷の海は今でもビビに優しかった。
初恋の人の、昔と変わらぬ気遣いと同じに、優しくて温かかった。
「何だか変な気持ち、この海は変わらないのに、私はこんなに大きくなっちゃって」
「ウソップもこないだ帰った時、そんな事言ってたな。
身体だけでかくなって、ガリバーになったような気分だって」
「ガリバー？そうね、あっちの岩山、もっと大きかったような気がするもの」
サンジと並んで砂を踏んだ。
足元がサクサクと音を立て、波音に混じった。
海の匂いとサンジの煙草の匂い、どちらもビビには懐かしく愛しい匂いだった。
「ビビちゃん、・・・いいんだな」
「ええ、私幸せになるわ」
サンジが深い溜め息のように煙を吐き出した。
内海に無数に煌く小島が、煙を受け止めた。
ビビは真っ直ぐに海を見据え、空と一つになった。
「・・・ああ、私お兄ちゃんがいちばんで良かった」
「いちばん？何だそれ？」
「忘れちゃったのね、お兄ちゃんが教えてくれたのよ。
人は、にばんめに好きな人と結婚するって」
「え？俺んな事言ったっけ？」
目を丸くする表情と、年甲斐の無い口ぶりが姪の自分よりも年下に見えた。
「言ったの。この浜でね。
私それを聞いた時、判っちゃったの。
お兄ちゃんがいちばん好きだったのはナミさんなんだなって」
「さあ、どうかな」
「私はお兄ちゃんがいちばん好きだった。
だから私、ルフィさんみたいな素敵な人と結婚できるのよね」
「何だ？ルフィはにばんめかよ、本人聞いたら怒んねーか？」
「フフ、怒るわけないわ、お兄ちゃん意外とあの人の事判ってないのね」
大人をからかうように言うと、ビビはサンジの胸元に手を伸ばす。
白い指にサンジが見とれている隙に、ビビはポケットの煙草をケースごと引き抜いた。
ケースを掴んだまま、砂浜を走り出す。
「私の結婚式まで、お兄ちゃんは減煙！」
「え？待ってビビちゃん、それは勘弁！」
「だ〜め〜！」
子供の頃、同じように叔父をからかって、煙草を取り上げて逃げた事があった。
この砂浜に、小さなビビがいた。
嘘つきなウソップがいた。
泳げないのに海好きなルフィがいた。
妹のような金髪の女の子カヤがいた。
自分を見守る優しくて恋しい、蒼い瞳があった。
持ち主の温もりが残る煙草を胸に抱いて、ビビは砂浜を走り続けた。
叔父が必死になって後を追いかけてくる。
波打ち際まで走ると、サンジが自分に追いついてきた。
煙草に手が届く寸前に身を翻し、海に放り投げた。
「あーあ、まだ６本は入ってたのにー」
「６本分減煙になったわ」
サンジの煙草を乗せ、波は沖合いに還っていく。
白いケースはゆらゆらと揺れながら波間を漂い、もう一つ別の世界へ旅立っていった。
ビビは潮風の中、運ばれていく煙草をいつまでも見送り、自分の中の何かに別れを告げた。
今度こそ
今度こそ さよなら
さよなら、私のふるさと
私のいちばん大好きな海
さよなら、少女の私
私は愛する人と一緒に、遠くで暮らします
さよなら
私のいちばん好きな人
さよなら
そして・・・・ありがとう
サンジ兄ちゃんのいちばん好きな人は誰なんでしょう？
管理人ズは皆それぞれ思い描いているようですが、
私として、よく判んねーってのが
サンジ兄ちゃんらしいかなと思ったりしてます
いちばん好きな人がはっきりしている人はきっと幸せなんだろうな
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